hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(31)──最後の水曜日の前に、ドスト先生の痛覚

こうしてロカンタンは、ブーヴィルを発とうとするのである。 感傷にまみれることは日記では許される。むしろ、それこそが人目にさらさぬ日記の効能だろう。思い思いの感慨をもって自照し、納得するためにこそ、人は日記を書くのだ。 だが、それを人目にさら…

『嘔吐』を読む(30)──火曜日「私は自由だ。つまりもう生きる理由はいっさいない」

【『嘔吐』を読む(30)──火曜日「私は自由だ。つまりもう生きる理由はいっさいない」】 先回私は、感情が人間を動かすのだと述べた。ただし、感情、すなわち感じることは、決して考えることと切り離されたものではなく、思考と深く結びついているのである(分…

『嘔吐』を読む(29)──午後六時から土曜日、〈抜け殻〉となった男女

結局のところ、人を動かすのは感情なのだ──あらためてそう思わせられるのである。 ロカンタンは冷静に自他を認知し、識別し、了解しようとするが、われわれは、その認識過程がしばしば好悪の感情によって色づけられ、また、ふいに生じた情動によって大きく揺…

『嘔吐』を読む(28)──午後六時、「また見付かつた。何が?──永遠」

前回引用した、人が辟易するほどの長広舌は、独創的でわれわれの意表を突いてくる。 ロカンタンは、あふれかえる物の豊富さを、実は「陰気で、病弱で、自分を持てあましている豊富さ」なのだと言う──なるほど、なかなか面白い発想ではないか。 《このような…

『嘔吐』を読む(27)──午後六時、マロニエの根、「〈吐き気〉は……私自身なのだ」

【『嘔吐』を読む(27)──午後六時、マロニエの根、「〈吐き気〉は……私自身なのだ」】《そして突然、一挙にしてヴェールは裂かれ、私は理解した、私は見た。》(水曜日、末尾) 電車から飛び降りて、倒れかかるように公園のベンチにかけたロカンタンは、足下に…

『嘔吐』を読む(26)──水曜日(4)「これは座席だ」

独学者との対話に苛立ち、強烈な〈吐き気〉に襲われたロカンタンは、思わずナイフをテーブルに強くたわむまで押しつけて、こう考えるのだ。 《つまりそれだったのか、〈吐き気〉は。この明明白白な事実だったのか? 私はさんざん頭を悩ませた! それを書きも…

『嘔吐』を読む(25)──水曜日(3)ヒューマニズム、「強烈な喜び」と「途方もない怒り」

『嘔吐』の後半になって、独学者はさらに印象深くあらわれてくる。 ブーヴィルの町の図書館の本をAからZまで順に読もうという変人で、ロカンタンが勝手に「独学者」l'Autodidacte と名付けた相手である。独り者で、三十歳のロカンタンより年上らしい。「オジ…

『蓼喰う虫』を読む(3)──「自己愛」の醍醐味

ラ・ロシュフコー流に言えば、まさに「自己愛」と見えるのではないか。 いかに人柄の良いできた夫であるか、妻子の心中をもきめ細かく慮って慎重にことを進めようとし、また一方で、いかに柔軟な知性と現代的な倫理観をも保持して、いざとなれば敢然と己の考…

『蓼喰う虫』を読む(2)──やれやれなるほど、だがそれにしても、か

こちらが年を取ったせいか、さらに分かりやすさが増したように感じるのである。 もとから決して難解だったわけではなく了解可能な小説と見えていたのだが、さらにやれやれなるほど、といった思いが強まってくるのだ。了解は必ずしも共感ではなく、うんざりも…

ワンプレートランチの夢──よしなし事

郊外のファミレスで友と語る。久し振りの店で、日替りランチが貧弱なワンプレートに。小奇麗なメニューに模様替えし、価格もかさ上げしたかのようである。それでもほぼ満席の盛況ぶり。配膳ロボットは未だ無く、店員数人で健闘中。 ドリンクバー付にて、まず…

『蓼喰う虫』を読む(1)──〈整理された優柔不断〉

『蓼喰う虫』は、いわば、犬も食わない夫婦の面倒のあれこれを興味深いかたちに仕立て上げ、文化的な色付けをほどこした一篇といえるだろう。 すでに性的な関係を持たなくなった夫婦が、夫は娼婦のもとに通い、妻は夫の了承の下に愛人を持って、小学四年の息…

『嘔吐』を読む(24)──水曜日(2)「田舎のヒューマニスト」

ロカンタンは独学者に冷たく向かい合う。「独学者」 l'Autodidacte とはロカンタンの付けたあだ名で、地方都市の図書館常連で一風変わった読書家の好人物だが、孤独で陰がある男性でもある。 ロカンタンは、自分を昼食に誘った独学者がレストランの割引回数…

『嘔吐』を読む(23)──火曜日「無し。存在した」、水曜日(1)独学者との昼食

「火曜日」の記載は「無し。存在した。」だけである。 《Rien. Existé.》 荷風の「昼、浅草。」ではないが、簡潔に置かれた二語が生きている。 その日は何もなく、なお自分は存在した、というのだ。難しく考える必要もないだろう。キザではあるが、若者にも…

谷崎文学の今日性─『蓼喰う虫』の“別れる夫婦”

【旧稿より】4月からの講座で谷崎潤一郎『蓼喰う虫』を読む予定。下記は26年前中日・東京新聞に書いたもの。基本的な読み方は変わっていないつもりだが、はたしてどうなるか。「納得」や「無思想」といった言葉がいま自他にどう響くか、確かめつつ読み直して…

『嘔吐』を読む(22)──月曜日(3)「私の思考 ma pensée、それは私だ」

https://youtu.be/7M2xHyF_wh4 《待ちかまえていた〈物〉が急を察してざわざわし始めた。それは私に襲いかかり、私のなかに流れこみ、私は〈物〉で満たされた。》 没頭していた対象が消え、自己を見失ったロカンタンは、〈存在〉に急襲されたと感じる。周囲…

『嘔吐』を読む(21)──月曜日(2)「〈物〉 la Chose、それは私だ」

「ロルボン大事件は終わった」とロカンタンは言う。 君は没頭していた対象に幻滅したのか、またしても。「一大恋愛が終わるように」──大恋愛 une grande passion、サルトルが好んで引いたという『失われた時を求めて』の「スワンの恋」のようにか。何と大げ…

『嘔吐』を読む(20)──月曜日(1) ロルボン氏は死んだ

「土曜日」の美術館での「冒険」の後、ロカンタンは案の定、脱力してしまう。 ブルジョワ連中の肖像画を逐一点検して彼らの生き方をこき下ろしたはずの若者は、日曜日は一語も書かず、「月曜日」になってこんな弱音を吐くのだ。 《もうロルボンにかんする本…

『嘔吐』を読む(19)──ブーヴィル美術館(3) ロカンタンの負け戦

断っておくが、私は『嘔吐』という小説をサルトルが後に開陳した思想の説得材料として読もうとしているわけではない。作者としてのサルトルを意識しつつ、むしろ、その哲学的また政治的姿勢──ポーズとは摩擦を生じ、齟齬を来すような小説内部の実相をこそ見…

『嘔吐』を読む(18)──ブーヴィル美術館(2) ロカンタンの苦闘

ロカンタンは、町の名士たちの肖像画が掲げられた美術館で、いったい何をしようというのか。 《私は彼のあらを探すのを諦めた。しかし彼の方は私を放さなかった。私は彼の目のなかに、穏やかな、しかし容赦ない判断を読みとった。/そのとき私は、われわれを…

『嘔吐』を読む(17)──ブーヴィル美術館(1) 名士たちの肖像画との戦い

さて、いよいよ、『嘔吐』中で最もうんざりする、また同時に、最も重厚でみごとな感触に満ちたくだり──美術館の一幕である。 「土曜日の朝」 パニックの翌日、ロカンタンは再びカフェ・マブリに行って朝食をとり、ファスケル氏はひどい流感で寝込んでいただ…

『嘔吐』を読む(16)──チグハグなパニック

行きつけの店のマスターが部屋で死んでいるというイメージにとりつかれたロカンタンは滑稽である。そのあげく、彼はパニックに襲われたのだという。 いつものように図書館に行っても不安は消えず、またカフェ・マブリに戻ってみるが、入っていくのさえやっと…

『嘔吐』を読む(15)──カフェ・マブリ、ファスケル氏は死んだのか、パニック

またしても金曜日である。ロカンタンはカフェ・マブリに行く。行きつけで、きびきびと動き廻るマスター、ファスケル氏の一種いかがわしい雰囲気がむしろほっとさせる店なのだという。 《私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をす…

『嘔吐』を読む(14)──さらに、若者の俗物批判を「ロウリュウ」のように

若者ロカンタンは、さらに俗物の大人、ロジェ氏の観察を続けるのだ。 《ロジェ医師はカルヴァドスを飲んだ。その大きな身体が屈みこみ、瞼が重たげに垂れる。私は初めて目のない彼の顔を見た。まるで今日あちこちの店で売っているボール紙のお面のようだ。彼…

『嘔吐』を読む(13)──単独者ロカンタン、ロジェ医師とアシル氏、マルメラードフ

さて、またもとに戻ろう。 食堂で、孤立した小男のアシル氏に見つめられてロカンタンが気づまりになったところに、恰幅の良いロジェ医師が入ってくる。なれなれしくウェイトレスに声をかける、町の名士然とした男である。 《これこそ私が見事な男の顔と呼ぶ…

『嘔吐』を読む(12)──ロカンタンとムルソー、サラマノ老人

最近、二人の若者と再会したのだ。二人ともだいぶ以前に知り合っており、ときどき思い出すことはあったのだが、あらためてまじまじと顔を見ることもなく、その後は何度もすれ違っていたのだ。ロカンタン君とムルソー君である。二人とも、その日記様の書物の…

『嘔吐』を読む(11)──さらにアシル(アキレス)氏と、コーヒーブレイク

謝肉祭の最終日マルディグラの昼、街角の食堂に、アシル氏はおずおずと寒そうに入って来る。そして、「みなさん。こんにちは」と挨拶してから、着古したコートを脱ぎもせずに席に着き、何にするかと聞かれて、ぎょっとしたように不安そうな目つきをするのだ。…

『嘔吐』を読む(10)──謝肉の火曜日、独身者、アシル氏

思想家サルトルはもはや過去の人となった。その哲学はレヴィ・ストロースの批判以来構造主義以前のものとして片づけられ、性急な政治的姿勢も拠り所を失い、すっかり影をひそめてしまったかのように見える(レヴィ・ストロースの批判がはたして的を射ていた…

『嘔吐』を読む(9)──月曜日、冒険の感情、高等遊民

日曜日の最後に、「私」は「〔冒険の感情は〕来たいときにやって来る。そしてたちまち去って行く。それが去ったとき、なんと私はひからびていることか! その感情は、私が人生に失敗したことを示すために、このように皮肉な短い訪問をするのだろうか?」とぼ…

『嘔吐』を読む(8)──日曜日の残り(2)「それは……彼女なのだ」

しばしの後、「私」=ロカンタンは「デュコトン広場の奥」をめざして動き出す。 《私はふたたび歩き始める。風がサイレンの叫びを運んで来る。私はまったく独りきりだ。しかし、一つの都市に殺到する軍隊のように行進している。この瞬間に、海上では幾隻もの…

『嘔吐』を読む(7)──日曜日の残り(1)「空虚さという名の充実」

私は今、『嘔吐』(鈴木道彦訳、人文書院)を、kindleで読んでいる。 薄明の中に浮かぶ扁平なデジタル画面は、書中での位置を忘れさせ、タッチパネルに誘われるままあちこちを読み散らしてきたのだ。作中の「私」が街区を転々とする様をなぞるかのように。 …