hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(27)──午後六時、マロニエの根、「〈吐き気〉は……私自身なのだ」

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【『嘔吐』を読む(27)──午後六時、マロニエの根、「〈吐き気〉は……私自身なのだ」】
《そして突然、一挙にしてヴェールは裂かれ、私は理解した、私は見た。》(水曜日、末尾)

 電車から飛び降りて、倒れかかるように公園のベンチにかけたロカンタンは、足下に伸びたマロニエの根を見て、突然「理解した」j'ai comprisのだという。
 すでに「明明白白な事実」とまで書いていながら、何をいまさら、とも言いたくなるところだが、まあ、それほど繰り返し強い衝撃を受けたということなのだろう。それにしても、他人には分からぬ心の裡のすったもんだで、独り相撲の大騒ぎである。

《つまり、私はさっき公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微かな目印も消えていた。私は少し背を曲げ、頭を下げ、たった独りで、まったく人の手の加わっていないこの黒い節くれだった塊、私に恐怖を与えるこの塊を前にして腰掛けていた。そのとき私はそのひらめきを得たのである。》(午後六時)

 では、「そのひらめき」cette illumination(鈴木訳では「あの」)とは何だったのか。だがそれも、われわれ読み手にはもはや目新しくなくなっている。これまでに何度も聞かされてきたことだからである。つまりは、何かがそこに存るということ、その〈存在〉を強烈に感受し、理解したということらしいのだ。
 まあ分からぬこともない。人は疲れていれば、大木のグロテスクな幹や根から圧迫感を受けることもままあるだろう。早く帰って寝れば回復するはずと忠告したくもなるが、しかし、この若者の感覚と思考の運動は止まらない。以下、よくぞこれだけの量を、と呆れるほどの長広舌が出現するのである。

《私は思わず息を呑んだ。最近の数日まで、ただの一度も私は「存在する」という言葉の意味を予感していなかったのだ。私も他の者たちと同じだった、春物を着て海辺を散歩している人たちと同じことだった。彼ら同様に、私も「海は緑色である。あそこの白い点はカモメである」と言っていた。しかし、それが存在していること、カモメは「存在するカモメ」であることを、感じていなかったのだ。普段、存在は隠れている。しかし存在はそこ、私たちのまわりに、私たちのうちにある。存在は私たちである。口を開けば人は存在について語らずにいられないが、しかし結局、存在に触れようとはしないのだ。私が存在について考えていると思っていたときにも、実は何も考えていなかったと思わなければならない。私の頭は空っぽだった。せいぜい一つの言葉、「ある」という言葉があったくらいだ。ないしはそのとき、私は考えていた……どう言ったらよかろうか? 私は帰属ということを考えて、海は緑色の物の部類に属している、緑は海の特徴の一部を成している、と思っていたのだ。たとえ物を眺めているときでさえ、それが存在しているなどとは夢にも思わなかった。物はまるで舞台装置のように見えた。手に取ると、物は道具の役割をした。私は物の抵抗を予想していた。しかしそういったすべてのことは、表面で起こったにすぎない。もしも存在とは何かと訊かれたら、私は本気でこう答えただろう、それは何でもない、せいぜい、外から物につけ加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を何一つ変えるものではない、と。それから不意に、存在がそこにあった、それは火を見るよりも明らかだった。存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物の生地そのもので、この根は存在のなかで捏ねられ形成されたのだった。と言うよりもむしろ、根や、公園の鉄柵や、ベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消えてしまった。物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った──むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である。》

 なるほど、これまで「存在について考えていると思っていたときにも、実は何も考えていなかった」のが、「不意に、存在がそこにあった」と感じ、「存在はとつぜんヴェールを脱いだ」となったというわけか。
 君は、これまで個々の物の異様な印象をさんざん語ってきたはずだが、今や「物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず」、「表面を覆うニス」が溶けて「あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った──むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である」というのだね。これはなかなかどうして、斬新で面白い。

《私はぴくりとも動かないようにしていたが、しかし身体を動かすまでもなく、木々の後ろにある青い柱や野外音楽堂の燭台は目に入ったし、月桂樹の茂みにかこまれたウェレダの像も見えた。これらすべての物は……どう言ったらいいだろう? 私に不快感を与えた。それらがもっと弱く、もっとあっさりと抽象的に、もっと控え目に存在してくれればいいのに、と私は願っていた。マロニエは執拗に私の目に迫ってきた。緑色の錆び病が、幹を半分くらいの高さまで冒している。黒く膨れた樹皮は、煮られた革のようだった。マスクレの噴水の小さな水音がそっと耳に忍びこみ、そこに巣を作って、溜息で耳を満たしていた。鼻孔には、緑の腐ったような匂いが溢れた。すべての物が、静かに、優しく、存在に身を委ねている。ちょうど、とめどもない笑いに身を委ねて、べたべたした声で、「笑うって気持がいいものね」と言う、あの疲れた女たちのように。それらはいずれも互いに他の物の真ん前に身をさらけ出して、おぞましくも各自の存在の秘密を打ち明けあっていた。私は非存在とこの痺れるほどの豊富さとのあいだに、中間などあり得ないことを理解した。もしも存在するのだったら、そこまで存在する必要があった、黴が生えるまで、膨れ上がるまで、猥褻と言えるまで存在するのだ。別なもう一つの世界では、円や、音楽の調べが、純粋で厳格な線を維持している。しかし存在は撓みである。木々や、濃紺の柱や、噴水の幸福そうなささやきや、生き生きとした匂い、冷たい空気のなかに漂う暖かいほのかな霧、ベンチで食べたものを消化している赤毛の男。うつらうつらしたり消化中だったりするこれらのものをひとまとめに捉えると、それらはどことなく滑稽な様相を呈していた。滑稽……いや、そこまで行ってはいなかった。存在するものはどれ一つとして滑稽ではあり得ない。それは軽喜劇にあらわれるある種の場面と、どことなく似ていたが、その類似はほとんど捉えられないくらいだった。私たちは、自分自身を持てあましている多数の当惑した存在者だった。私たちの誰にも、そこにいる理由などこれっぱかりもなかった。存在者の一人ひとりが恐縮して、漠とした不安を抱えながら、他のものに対して自分を余計なものと感じていた。余計だということ。これこそ私が、木々や鉄柵や砂利のあいだに確立することのできた唯一の関係だった。私はマロニエの数を勘定し、これをウェレダ像との関連で位置づけ、マロニエの高さをプラタナスの高さに較べようと試みたが、無駄だった。存在する一つひとつの物は、私が閉じこめようとつとめた関係から逃れて、孤立し、あふれ出ていた。その関係(私が飽くまでそれを維持しようとしたのは、尺度や量や方向を備えた人間世界の崩壊を遅らせるためだったが)、私はその関係が恣意的なものであるのを感じていた。それはもはや物に影響を与えなかった。マロニエは、そこ、私の正面のやや左手にあって、余計だった。ウェレダ像も余計だった……。》

 ここでも個別の物象の不気味なまでのありさまが語られているが、それはさらに、より不気味な〈存在〉という「怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊」の表面の姿にすぎないのだというわけである。すべてが「身をさらけ出して」、「猥褻」で「余計」な存在としてあふれ出ている、というのだ。むろん、われわれ人間もまた。

《そしてこの私──無気力で、憔悴して、猥褻で、食べたものを消化しながら陰気な思考をもてあそんでいるこの私──私もまた余計だった。幸いにして、私はそれを感じたのではなく、むしろ頭で理解したのだ。しかし居心地は悪かった。なぜなら、それを実感するのを恐れていたからだ(今でも依然として恐れている──後ろからそれが首筋を捉えるのではないか、高波のように私を持ち上げるのではないかと心配なのだ)。私はぼんやりと、自分を抹殺することを夢見ていた。余計な存在者を少なくとも一つ減らすためだ。しかし私の死でさえも余計だったろう。私の死体も余計だ、この小石の上、この植物のあいだ、この微笑みかける公園の奥に滴る私の血も余計だ。腐乱した肉体も、それを受ける大地のなかで余計なものだったろう。最後に私の骨も、清められ、皮を剝がれ、歯のように綺麗さっぱりとした骨も、余計だったろう。私は永遠に余計なものだった。》

 こうした自虐的な自己認識──傲岸な自尊とうらはらに繰り返される自己像の振幅は、若い日の、他人は到底あずかり知らぬ〈いまここ〉の独り相撲として迫ってくる。そして、それはまた、ひょっとして、通念的な社会から抜け落ちた老年の〈いまここ〉にさえも通じるものとして……。
 哲学とはまさに危険な行為なのだ──青年にも、老年にも。
 われわれには、所詮、ブルジョワ社会という額縁が必要なのだろう。唾棄するにせよ、しがみつくにせよ。

 この後を、一気に読み続けるか、あるいは、ウンザリして投げ出してしまうかは読み手の自由であるが、その感受と思考の止まらぬ勢いは、まるで作者のプルーストに対する嫉妬をあらわしているかのようではないか。いわば、意識の流れのなめらかでセクシーな動きを臆面もなく身に着けようとした思考がここにはあるのだ。はたしてうまく化けおおせたか否かの評価もまた、まさに読み手の姿勢しだいなのである。
 〈吐き気〉といい〈不条理〉といい、それらはここで、ロカンタンが執拗に唾棄せんとしたブルジョワ社会──日々の己につながり、どこまでもまつわってくる通念的な世間──とは無縁な、別種のひろがりとそれを見る自分に向けて発せられた言葉──認知となっているのだ。
 こうして『嘔吐』は、水切りの小石から始まった感覚と認知の違和感が、ついには滑稽なまでの思念の奔流となって〈いまここ〉を流れているのだ、と思わせてくれるのである。
 この後は、「思わず息を呑んだ」というロカンタンに倣って、「思わずひたすら読み続けた」様をあらわして、ただ延々と引用してみることにしようか。
 できればせめて、あらためてタイプでと思ったが、まてまて、年甲斐もない危険は回避するに越したことはない、ここはやはりコピペですましておこう。

《今では〈不条理性〉という言葉が、私のペンの下から生まれる。先ほど公園にいたときには、この言葉が見つからなかったが、これを探していたわけでもない。言葉を必要としていなかったのだ。私は言葉なしで、物の上で、物とともに考えていた。不条理性とは、頭のなかに生じる観念ではなかったし、声となって発せられる息でもなく、私の足許で死んでいたあの長い蛇、あの木の蛇だった。蛇か、鉤爪か、木の根か、禿げ鷹の爪か、何でもよい。私は何一つ明確に表現したわけではないが、自分が〈存在〉の鍵を発見したこと、〈吐き気〉と私自身の生の鍵を発見したことを理解していた。実際、それに続いて私が捉えることのできたすべてのことは、この根源的な不条理性に帰着する。不条理性。またしても言葉だ。私は言葉と格闘する。あそこでは、私は物にじかに触れていた。しかし今ここでは、その不条理性の絶対的な性格を定着したいのだ。人間たちの多彩で小さな世界での動作や出来事は、相対的に、すなわちその動作や出来事に伴う状況との関係において、不条理であるにすぎない。たとえば狂人の行なう演説は、彼のおかれた状況との関係では不条理だが、彼の妄想との関係では不条理でない。けれども私は今しがた、絶対の経験をしたのだ。絶対、ないしは不条理の経験である。あの根が不条理でなくなるような関係のものは、何一つなかった。ああ! このことをどうやって言葉で定着することができるだろう? それは不条理だった。砂利や、黄色い草むらや、乾いた泥や、木や、空や、緑色のベンチとの関係でも不条理だった。不条理で、還元不可能なものだった。何物も──自然の深いところから発する秘かな譫言でさえも──これを説明することはできなかった。もちろん私がすべてを知っていたわけではない。芽が伸びてくるのも、木が成長するのも、見たわけではない。しかし、このざらざらした巨大な脚を前にすると、無知も知も重要ではなくなった。説明や理由づけの世界は、存在の世界ではない。一つの円は不条理ではない。円は、一つの線分を、その一端を中心にして回転させるということで、はっきり説明されるからだ。だがまたそれゆえに、円は存在していないのだ。逆にこの根は、私がそれを説明できないかぎり存在していた。節くれだって、じっと動かず、名前もない根は、私を魅了し、私の目を満たし、しきりに自分自身の存在へと私を引き戻すのだった。「これは木の根だ」と繰り返し自分に言ってみても、どうにもならない──もうその手は効かなかった。吸い上げポンプという根の機能から、これへ、海豹のように固く引き締まったこの皮膚へ、べとべとして硬い肉刺だらけの頑固なこの姿へと移るわけにいかないことは、私にもよく見てとれた。機能は何も説明しなかった。機能は、根とは何かということを大まかに理解させるけれども、この根のことはまったく理解させてくれなかった。この根は、色といい、形といい、硬直した動きといい……どんな説明にも及ばなかった。その性質の一つひとつは、いくらか根から離れて外に流れ出し、半ば凝固して、ほとんど一つの物になった。その一つひとつが根のなかでは余計だった。そして根の全体が今やいくらか自分の外に転げだし、自分を否定して、奇妙な過剰のなかに失われるような印象を与えた。私は靴の踵をこの黒い鉤爪にこすりつけた。その樹皮を少し剝いてみたかったのだ。別に何のためでもなく、挑戦として、鞣し革の上にすり傷の不条理なピンクの色を出現させるためだ。世界の不条理性と戯れるためだ。しかし足を引っこめたときに、私の見た樹皮は相変わらず黒かった。
 黒かった? 私はこの言葉が空気の抜けるように、異常なスピードで意味を失っていくのを感じた。黒かった? 根は黒くなかった。この木の上にあったのは、黒ではなかった──それは……別な物だった。黒は円と同じに存在していなかった。私は根を見つめた。それは黒以上だったろうか? それともほぼ黒だったのだろうか? しかし私はじきに、そんな自問自答をやめた。なぜなら、自分が見憶えのある国にいるような印象を持ったからだ。そうだ、私はすでに、同じ不安を抱きながら、名づけられない物を穿鑿したことがあった。私はすでに物について何かを考えようと──空しく──試みたことがあった。そして私はすでに、物の冷たくて動かない性質が、崩れて私の指からこぼれ落ちていくのを感じていたのだ。このあいだの晩の、「鉄道員の溜まり場」でのアドルフのサスペンダーがそうだった。あれは紫色ではなかった。ワイシャツの上にあった不思議な二つの染みがふたたび目に浮かんだ。そして小石、このすべての話の発端である例の小石だ。あれは……でなかった。私はもう、小石が何であるのを拒んだのか、正確に思い出すことができなかった。しかし、石の受け身の抵抗を、私は忘れていなかった。それから独学者の手。ある日私は図書館で、その手を握りしめたが、次の瞬間にそれが本当に手ではないような印象を抱いた。私は巨大な白い芋虫を想像したが、しかしそうでもなかった。それからカフェ・マブリでのビールのジョッキのいかがわしい透明さ。いかがわしい。そうなのだ、音や、匂いや、味は、いかがわしいのだ。それらが狩り出された野兎のように、目の前をさっと逃げていき、人がそれにあまり注意を払わないときは、そうしたものがごく単純で安全なものだと思えたし、世界には本当の青、本当の赤、本当のアーモンドないしは菫の匂いがあると思うことができた。けれども一瞬でもそれらの色や匂いを固定しようとすると、この快適で安全な感情は深い不安に場所を譲る。色、味、匂いは、決して真実ではなかった。それらは決して完全に自分自身であることはなく、自分自身以外の何ものでもない、ということがなかった。最も単純で分解不可能な性質も、それ自体の内部に、その中心に、自分自身に対して過剰なものを持っていた。そこに、私のすぐ足許にあるこの黒は、黒のようには見えなかった。むしろそれは、黒を一度も見たことのない人が黒を想像しようとする、混乱した努力のようだった。彼はどこで停止したらいいか分からずに、色を越えた曖昧な存在を想像してしまったのだろう。それは色に似ていたが、同時に……痣とか、分泌物とか、脂滓とか──またそれ以外のもの、たとえば匂いにも似ていた。濡れた地面や、生暖かい濡れた木の匂い、この筋張った木の表面を覆うニスのように広がった黒い匂い、嚙みつぶされた甘い繊維の味、そんなもののなかにそれは溶けこんでいた。私は単にその黒を見ていたのではない。人が見たものは抽象的な作り事であり、清潔にされ、単純化された観念、人間の観念である。眼前にある形の定まらない無気力なその黒は、視覚、嗅覚、味覚をはるかにはみ出していた。しかしこの豊かさは混乱に陥り、結局はもはや何物でもなくなった。なぜならそれはあまりに過剰だったからだ。
 これは異常な瞬間だった。私はそこで凍りついたように動けず、恐ろしい陶酔に浸っていた。けれどもこの陶酔のまっただなかに、何か新しいものがあらわれた。私は〈吐き気〉を理解し、それを所有していたのだ。実を言うと、私は自分の発見を明確に言語化したわけではない。しかし今はそれを言葉にするのも容易に思われる。本質的なことは偶然性なのだ。つまり定義すれば、存在は必然ではない。存在するとは単に、そこにあるということなのだ。存在者は出現し、出会いに身を委ねるが、人は絶対にこれを演繹できない。そのことを理解した人もいるだろう。ただし彼らは、必然的な自己原因の存在を作り上げて、この偶然性を乗り越えようと試みたのだ。ところでいかなる必然的なものも、存在を説明することはできない。存在の偶然性は見せかけでもなく、消し去ることのできる仮象でもない。それは絶対であり、したがって完全な無償性である。すべては無償だ、この公園も、この町も、私自身も。それを理解すると胸がむかむかして、すべてはふわふわと漂い始める。このあいだの晩、「鉄道員の溜まり場」でそうだったように。それが〈吐き気〉だ。それこそ不潔なやつらが──〈緑の丘〉に住む連中やその他の連中が──権利という観念で自分に隠そうとしたものだ。しかし、何とお粗末な噓だろう。誰も権利など持っていはしない。彼らもほかの人間と同様にまったく無償であり、自分を余計な者と感じないわけがない。また彼ら自身も口でこそ言わないが、内心ではあまりに過剰な、つまり形の定まらない、曖昧な、悲しい存在なのだ。
 この魅せられた状態は、どれだけ続いたのか? 私はマロニエの根だった。と言うよりもむしろ、完全に根の存在の意識になりきっていた。とはいえ──それを意識している以上──私は依然としてその存在からは切り離されているのだが、にもかかわらずそのなかに埋没し、その存在以外の何ものでもなくなっていた。居心地の悪い意識だ。それでも意識はこの動かない木の塊へと、全体重をかけて、ふらふらと引き寄せられて行くのだった。時は停止していた。足許には小さな黒い水たまり。この瞬間の後に何かがやって来るということはあり得なかった。この恐ろしい悦楽から、できれば身を引き離したい。しかしそれが可能だと想像することさえできなかった。私はその内部にいたのである。黒い木の株は過ぎて行かなかった。それはそこに、私の目のなかに留まっていた。大きすぎる食べ物が喉につかえて留まっているように。私はそれを受け入れることも、拒むこともできなかった。いったいどんな努力を払って、私は目を上げたのだろう?
 そもそも、私は目を上げたのか? むしろ一瞬のあいだ消滅し、それから次の瞬間に、頭を仰向け、目を上に向けた姿勢で蘇ったのではないだろうか? 実際、私は移行を意識しなかった。ただ不意に、根の存在を考えることが不可能になったのだ。根は消えており、私がいくら自分に向かって、根は存在しているぞ、まだそこに、ベンチの下に、右足のところにあるぞ、と繰り返し言いきかせても無駄だった。それはもう何も意味しなくなっていた。存在は、遠くの方から考えられる何かではない。とつぜんそれが侵入してきて、自分の上で停止し、動かない大きな動物のように重く心にのしかかることが必要だ──そうでなければ、もうまったく何もないことになる。
 事実もうまったく何もなかった。私の目は空っぽで、私は解放されて大喜びだった。ところが不意にそれが目の前で動き始めた。軽い曖昧な運動だ。風が木の梢を揺らしていたのである。
 何かが動くのを見るのは不愉快ではなかった。おかげで私は、まるでじっと目をこらして自分を見つめているようなあのすべての不動の存在から、気を紛らせることができた。私は枝の揺れるのを目で追いながら考えた、運動は決して完全に存在してはいない、それは移行であり、二つの存在の中間であり、音楽で言う弱拍である、と。私は無から存在が生じ、徐々に成熟して花開くのを見ようと身構えていた。こうしていよいよ私は存在の不意を襲って、それが誕生しつつあるところを見ることになるだろう。
 しかしものの三秒とたたないうちに、私のすべての希望は一掃された。自分の周囲を盲目的に探るためらいがちなこれらの枝の上で、私はどうしても存在への「移行」を捉えることができなかったのだ。この移行という観念も人間の作り事で、あまりに明晰すぎる観念だった。このささやかな動きはことごとく孤立しており、そのものだけで自足していた。それは至るところで大枝や小枝からあふれ出ていた。そしてこれらの乾いた手の周囲を旋回し、小さな旋風でその手を包んでいた。もちろん運動は、木とは別物である。しかし、それもやはり一つの絶対だった。一つの物だった。私の目は、充実したものにしか出会わなかった。枝の先端には、存在がうごめいていた。その存在は絶えず更新されていたが、決して新たに誕生するわけではなかった。存在する風がやって来て、大きな蠅のように木に留まる。すると木が震える。しかし震えは一つの性質の誕生ではなかったし、可能態から現実態への移行でもなかった。それは一つの物だった。物である震えが木のなかに忍びこみ、木を捉えて揺らし、そして不意に木を見捨てると、遠くへ立ち去って、くるくる回転していた。すべては充実しており、すべては現実態で、弱拍はなかった。すべては、ごく微かなぴくりとした動きでさえも、存在で成り立っていた。そして木のまわりでせわしく動いているこれらすべての存在者は、どこから来たのでもなく、どこへ行くのでもなかった。不意にそれは存在し、それから不意にもう存在しなくなるのだった。存在は記憶を持っていない。消え去ったものについて、存在は何一つ保存していない──思い出すらない。至るところに、無限に、余計な存在がある、常にどこにでもある。存在は──存在によってしか限定されない。私はこの発端のない存在物の氾濫に呆然と打ちのめされて、崩れるようにベンチに座った。至るところに孵化があり、開花があり、私の耳は存在でぶんぶん耳鳴りがしていた。私の肉体そのものもぴくぴくと痙攣し、半ば口を開け、世界中の発芽に身を任せている。胸が悪くなるような体たらくだ。「それにしてもなぜだろう」と私は考えた、「なぜこれほど多くの存在があるのだろう? しかもみな似たり寄ったりだというのに?」どれもこれも同じような木がこんなにあって、何の役に立つのか? かくも多くの存在が、挫折をしては執拗にやり直し、またふたたび挫折したところで何になる?──まるで仰向けにひっくり返った昆虫の不器用な努力のようだ──(私もそうした努力の一つである)。このような豊富さは、気前のよさがもたらした結果ではなく、その逆だった。それは陰気で、病弱で、自分を持てあましている豊富さだった。これらの木、ぎごちないこれらの大きな肉体……。私は噴き出した。なぜなら不意に、本に書かれている素晴らしい春のことを、至るところではじけ、炸裂し、巨大な開花で充満している春のことを思い出したからだ。権力への意志と生存闘争のことを語った愚か者たちがいた。つまり彼らはただの一度も、一匹の動物や一本の木を眺めたことがなかったのか? 円形脱毛症のような斑のあるこのプラタナス、半ば朽ちかけたこの樫、これらを、空に向かってほとばしる若く激烈な力のように思わせたかったのだろう。それならこの根はどうか? おそらく、猛禽の貪欲な鉤爪が大地を引き裂き、そこから栄養物をもぎ取るように、これを想像することが必要だったのだろう。
 物をそんなふうに見るのは不可能だ。ぶよぶよなもの、虚弱なもの、それなら賛成だ。木々はふわふわと漂っていた。これが空に向かってほとばしっているなどと言えるのか? むしろぐったりしている、と言うべきだ。今にも幹が疲れた陰茎のように皺になり、縮こまり、襞のある黒く柔らかい塊になって、地面に倒れるのが見られるだろう、と私は予期していた。木は、存在したいとは思っていなかった。ただ、存在をやめるわけにいかなかったのだ。それだけの話である。そこで木はそっと、大して気乗りもせずに、さまざまな小細工を弄した。樹液は心ならずもゆっくりと道管を通って上って行ったし、根はゆっくりと大地に食いこんで行った。しかし木は絶えず、何もかもすぐにほったらかして、消滅しそうに見えた。疲れて老いた木は、不承不承に存在を続けていたが、それは単に死ぬには弱すぎたからであり、死は外部からしか来られないためだ。自分自身の死を内的必然性として誇らしげにおのれのうちに抱えているのは、音楽の調べのみだ。ただし音楽は存在ではない。すべての存在者は理由もなく生まれ、弱さによって生き延び、出会いによって死んでゆく。私は後ろに寄りかかって、瞼を閉じた。けれども直ちに急を告げられたイメージがわっと押し寄せてきて、閉ざされた私の目を存在で満たした。存在は充実であり、人間はそれを離れることができないのである。》

 さらに、あれこれ書きたくなったのだが、まてまて、ここもまた、ひとまず回避としておこう。
 冗語御容赦、お付合い多謝。

#サルトル #嘔吐 #ロカンタン #吐き気 #存在 #意識の流れ