hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(26)──水曜日(4)「これは座席だ」

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 独学者との対話に苛立ち、強烈な〈吐き気〉に襲われたロカンタンは、思わずナイフをテーブルに強くたわむまで押しつけて、こう考えるのだ。

《つまりそれだったのか、〈吐き気〉は。この明明白白な事実だったのか? 私はさんざん頭を悩ませた! それを書きもした! 今や私は知っている。〈私〉は存在している──世界は存在している──そして私は世界が存在していることを知っている。それだけの話だ。》

 しかし、ここでは「この明明白白な事実」cette aveuglante évidence とまで断言しながら、依然として、〈吐き気〉la Nausée は「それ」として済まされているのだ。まるで奥歯にものをはさんだまま叫んでいるかのようで、滑稽でさえある。それでさらに興味がつのり、理解も深まるというしかけなのか。何ともはや、「知っている」のなら早く言ってくれ、いつまで待たせるんだと思わせる──それこそが狙いなのか。
 だが、そんなもどかしい語りの中でかえって激しい勢いで迫ってくるのは、必死で「それ」に立ち向かう「私」の〈いまここ〉の感覚なのだといえるだろう。いかにもわざとらしい仕立てとも見えるが、すでに書いたように、私はこうした〈いまここ〉をつかみ取ろうとする挑戦にこそ、『嘔吐』の小説としての力を認めたいのである。
 食堂を逃れ出たロカンタンは、目の前に広がる春の海岸に憩う人々を見る。

《私は彼らに背を向ける。手すりに両手でよりかかる。本当の海は冷たく、黒く、動物でいっぱいだ。海は、人びとを欺くための薄い緑の皮膜の下で、這いまわっている。私のまわりにいる空気の精〔ここでは人間〕たちもそれに騙された。彼らは薄い皮膜しか見ていない。その皮膜こそが神の存在を証明しているのだ。ところが私にはその下が見える! ニスは溶け、天鵞絨(ビロード)のように滑らかに輝く小さな皮膚、神さまの作った可愛い桃色の肌は、私の視線の下の至るところではじけ、裂けてかすかに割れる。》

 海辺で幸せそうな人間たちを前に、「薄い緑の皮膜」の下に黒々と這いまわる「本当の海」が見えるというロカンタンは、自分を一匹の蟹だと感じ、やって来た電車に飛び乗るのだ。

《窓ガラスの向こうには、ひどく固くて脆い青みがかった物が、ガタンゴトンと次々にあらわれる。人だ、壁だ。一軒の家が、開いた窓から黒い内部の芯を見せている。窓ガラスは、すべての黒い色を薄くし、青くする。黄色い煉瓦の大きな住居も青くする。その住居は、びくびくと躊躇しながら進み出て、不意に前のめりになって止まる。一人の男が乗って来て、私の正面に腰を下ろす。黄色い建物はふたたび出発し、ひと飛びで窓ガラスとすれすれのところまで滑って来るが、近すぎるのでもうその一部分しか見えず、色もすっかり暗くなった。窓ガラスが震動する。建物は圧倒するばかりにそびえ立ち、あまりに高いのでもう目にも入らず、何百もの窓が開かれて内部の黒い芯に通じている。建物は箱に沿って滑り、触らんばかりだ。震動する窓ガラスのあいだが闇になった。建物は泥のように黄色く、どこまでも滑って行く。窓ガラスはスカイブルーだ。そしてとつぜん建物はもういなくなる。それは背後にとり残され、灰色の生き生きとした光が箱のなかに侵入し、容赦ない正当さで至るところに広がる。それは空だ。窓ガラスを通して、今なお空の厚みが、かぎりない厚みが見える。というのも、今はエリファール坂を登っているところだし、両側がはっきり見えるからだ。右は海まで、左は飛行場まで。禁煙、ジターヌでさえも〔煙草のポスター〕。》

 中身の詰まった読ませる部分である。あてもなく電車の乗客となった青年の目に、窓ガラスの外を過ぎる建物と空とが飛び込んでくる。彼は身の置きどころもなく、ぎらぎらと氾濫する物象のイメージに晒されていくのだ。若い読者は今を、そして老年は往時の自分を想起したくもなるだろう。われわれの切羽詰まった〈いまここ〉も、こうして過ぎていったのだと。

《私は座席に手をつくが、急いでその手を引っこめる。それは存在しているのだ。私が座っているその物、私がそこに手をついた物、それは座席と呼ばれる。彼らは人が座れるように、わざわざこれを拵えた。革や、バネや、布を持ってきて、座るものを作ろうと考えて仕事にとりかかった。そして仕事が終わったときに、彼らの作り出したのがこれだ。それを彼らはここに、この箱のなかに持ってきた。そして箱はいま揺れる窓ガラスとともに、ガタゴトと走っている。そして脇腹にはこの赤い物をくっつけている。私はいくらか悪魔祓いのように、「これは座席だ」と呟く。しかし言葉は唇の上に留まっている。物の上に置かれるのを拒んでいるのだ。物は物のままで、その赤いプラッシュ〔ビロード〕の布地には、幾千という赤い小さな脚が突きだしている。すっかりこわばった、小さな死んだ脚だ。仰向けになったこの巨大な腹、血まみれの、膨れあがった腹──この箱、この灰色の空のなかに浮かんでいる、これらの死んだ脚がついた膨らんだ腹、これは座席ではない。それはまたまったく同じように、たとえば水で膨れあがった死んだ驢馬、灰色の大河のなかに、洪水の大河のなかに、腹を上に向けてぷかぷか浮いている死んだ驢馬でもあり得るだろう。そして私は驢馬の腹の上に腰掛けて、足を澄んだ水のなかにつけているのかもしれない。物は名前から解放された。物はそこにある、グロテスクな、頑固な、巨大な物が。それを座席と呼んだり、それについて何かを言ったりするのは、愚かなことに見える。私は名づけようのない〈物〉に囲まれているのだ。独りきりで、言葉もなく、身を守るものもない私を、物が取りまいている、下からも、背後からも、上からも。物は何も求めない、自分を押しつけてもこない。物はただそこにあるのだ。座席のクッションの下には、木製の内壁沿いに、一本の細い影の線がある。ほとんど微笑のように、謎めいた、悪戯好きといった様子の、座席に沿って走っている一本の細く黒い線だ。それが微笑でないことくらい、私はよく知っている。しかし、それは存在し、白っぽい窓ガラス、ガタガタとすさまじい音を立てる窓ガラスの下に走っている。窓ガラスの背後に次々とあらわれては止まり、またふたたび走り出す青いイメージの下で、その線は頑なに続く。一つの微笑のはっきりしない思い出のように、なかば忘れて最初のシラブルしか思い出せない言葉のように、それは頑なに続いていく。》

 これもまた、秀逸な部分である。次章の名高い「マロニエの根」のくだりなどより盛りだくさんで、奇抜な暗喩と偏執病的なこだわりが勢いよく連射され、読み手を圧倒して引っ張っていくのだ。しかも、それは病的に見えながらも、具体的でごく分かりやすい思考の動きなのである。
 つまりは、電車の「座席」la banquette とは何か、という問いかけなのだ。ただし、それにただ木材や革や金属や布(今ならばプラスチック)によって作られたものだ、などと答えるのではなく──それならわれわれも十分知っている──さらに、それら個々の物は、よく見れば不気味ともいえるほどに個別のかたちや質感、色彩を帯びており、どれほど了解しがたいものか、と突き付けてくるのだ。
 それらが「私」を取り囲み、接触し、滲み出し、覆いかぶさり、動き続ける〈物〉の存在なのだ。

《「停留所までお待ちください」
 しかし私は相手を押しのけて、電車のそとへ飛び降りる。もう我慢できなかった。物がこんな近くにあることに耐えられなかったのだ。私は鉄柵を押して入る。いくつもの軽い存在がわっと飛び上がり、梢に留まる。今や私は我に返り、自分がどこにいるのか分かる。私は公園にいるのだ。黒い大きな幹のあいだ、空に向かって差し出される黒い節くれだった手のあいだのベンチに、私は倒れるように腰を下ろす。足の下では一本の木が、黒い爪で地面を引っ掻いている。私はなるがままになり、自分を忘れて、眠ってしまいたい。だが、できない。息がつまりそうだ。存在は至るところから私のなかに入りこむ、目から、鼻から、口から……。
 そして突然、一挙にしてヴェールは裂かれ、私は理解した、私は見た。》

 この金に困らず、定職も無い、頭でっかちの青年の見たという〈物〉Choseの襲来劇は、すでに書かれていたはずだ(月曜日)。そこで彼は、「〈物〉la Chose、それは私だ」とまで言っていたのだ。だが、さらに追い詰められた彼は、今やより詳しく、具体的に、恐るべき個々の物体の様相に目を凝らしているのである。すでに逃れようもない身となった囚人が、四方の壁にあくなき視線を向けて、あたかも自ら不安を高めていくかのように。
 ベンチに腰を下ろした青年の中に、「存在」l'existence が入り込んでくる。まるでSFのホラー映画のようだが、私には重苦しいユーモアも感じられる。つげ義春の漫画のそれにあるような……。
 そして、とうとう、「それ」が明らかになるのだ。

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