hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(17)──ブーヴィル美術館(1) 名士たちの肖像画との戦い

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 さて、いよいよ、『嘔吐』中で最もうんざりする、また同時に、最も重厚でみごとな感触に満ちたくだり──美術館の一幕である。

「土曜日の朝」
 パニックの翌日、ロカンタンは再びカフェ・マブリに行って朝食をとり、ファスケル氏はひどい流感で寝込んでいただけで死んでおらず、娘がダンケルクから看病に来ているとレジ係から聞く。そしてなんと、カフェ・マブリの件はそれで終わってしまうのだ。一体、昨日の大騒ぎは何だったのか。だが、この知性溢れる若者はもうパニックについては語ろうとしない。読者がいぶかるのもそっちのけで、今はアニーとの再会を想像して鼻の下を伸ばすだけと見えるのである。
 やれやれ。だが、その“回復”のあっけなさは、昨日の騒ぎのチグハグさにちょうど見合っているといえなくもない。まさに、パニックの reason はファスケル氏にではなく、若者の心の不安定の方にあったのだ。今朝になって、それはもはや影を潜めてしまったのか。
 いや、まてまて、次の章「午後」で、ロカンタンは美術館という"戦場"へと向かうのだ。

「午後」
 去年初めてブーヴィルの美術館に行った時、ロカンタンはある代議士の肖像画を見て当惑したのだという。絵のプロポーションがおかしいのか、遠近法の失敗なのか、ひどく不安定に感じたのだ。それ以来何度か見に行ったが当惑は消えず、名高い画家がデッサンを間違えるはずはないが、と疑問に思っていたというのである。そしてこの日、ロカンタンは図書館でその手掛かりを見つけるのだ。

《ところで今日の午後、『ブーヴィルの風刺作家』という無頼新聞、戦争中に社主が反逆罪で告発されたこの新聞の古いバックナンバーを繙(ひもと)いていたときに、私は真相を垣間見た。それで直ちに図書館を出て、美術館を一巡しに行った。》

 ということで、場面は急遽美術館へと移り、ブーヴィルの名士たちの肖像画をめぐるロカンタンの執拗な“講釈”が始まるのである。そのあげくには、代議士オリヴィエ・ブレヴィーニュ氏の肖像画の謎も明らかになるのだが、これもまた「推理小説のサスペンスの導入」の一環と見えるのだ。
 では、そのお手並みは……だが、まずは、ロカンタン君の案内に従って、この地方都市の美術館を、われわれも覗いてみることにしよう。大広間には、町のお歴々、「ブーヴィルのエリート」の肖像画が百五十点以上も壁に掛けられているのだという。この歴史家でもある若者は、それらの絵の人物を見分けながら詳しく解説していくのである。
 しかしその前に、彼はまず大広間の入り口の上に新たに掛けられた絵、『独身者の死』La Mort du célibataire に目をとめる。

《腰まで裸で、上半身は死者にふさわしく、いくらか緑色がかった独身者が、乱れたベッドの上に横たわっている。くしゃくしゃになったシーツと毛布が、長かった臨終の苦しみを示している。私はファスケル氏のことを思い出して微笑んだ。彼は独りではない。娘が看病しているのだから。絵のなかでは、手伝いの女が早くも簞笥の引き出しを開けて金を勘定しているが、これも見るからにこすからい顔つきの奥さま召使い〔主人の愛人となった召使〕の一人だろう。開いたドア越しの薄暗がりに、ハンチングをかぶった一人の男が見えるが、彼は下唇にタバコをくわえたまま待ち受けている。壁のそばでは一匹の猫が、われ関せずとミルクを飲んでいる。》

 ロカンタンは、自分の姿を見ているのだ。惨めに死んで行く独身者として。(ここで、カフェ・マブリのファスケル氏のことを思い出しているのが滑稽である。部屋で孤独に死んでいるのかと思った男には、看病してくれる娘があったのだ)。

《この独身男は、自分自身のためにしか生きなかった。そのために、厳しい当然の罰によって、彼の死の床には誰一人、目を閉じてやるために来る者はいなかった。この絵は私に最後の警告を発していた。まだ間に合うぞ、引っ返すことは可能だぞ、と。》

 すなわち、孤立した独身者 célibataire である自分の末路を想像し、この大広間には、それとはまったく異なる功成り名遂げた名士たちが溢れているのだ、と意識するのである。

《だが、もしこの警告を無視するなら、次のことをよく心得ておかねばならない。すなわち、これから私が入って行く大広間には、百五十点以上の肖像画が壁に掛けられているが、余りに早く家族の手から奪われた何人かの若者と、孤児院の院長だった女性を除けば、ここに描かれた人たちのうちに誰一人として独身で死んだ者はなく、誰一人として子供もおらず遺言もせずに死んだ者はなく、誰一人として臨終の秘蹟を受けずに死んだ者はいない、ということだ。この人たちはその日も他の日々と同様に、神や世間の作法に則って、自分たちの権利である永遠の生命の分け前を要求するために、静かに死のなかに滑りこんで行ったのである。
 というのも、彼らはすべてに権利を持っていたからだ。人生に、仕事に、富に、指揮をとることに、尊敬を集めることに、そして最後には不死に対しても。》

 こう考えながら展示室に入っていくロカンタンは、眼前に現れる厳しい対立を意識して身構えているのだ。それは、「単独者」l'homme seul たらんとする自分と、その反対側に陣取った圧倒的な存在たる名士たち──俗物の対立である。

《私はちょっとのあいだ心を集中してから、大広間に入った。窓のそばで警備員が眠っていた。淡い金色の光が窓から落ちて来て、絵の上に斑を作っていた。この長方形の大きな部屋には、生きているものが一つもいない。わずかに一匹の猫が、私の入って来たのに怯えて逃げ出しただけである。しかし私は自分に百五十対の目が注がれるのを感じた。》

 そこには、ブーヴィルを商業港として発展させ、労働者の教育と庇護に力を入れ、ストライキをも乗り越え、第一次大戦時には息子たちを「祖国に差し出した」功労者たちと、青少年クラブや託児所を設立し、「立派な子供たち」を育てあげ、「義務と権利、宗教と伝統」とを教えた賢夫人たちが描かれているのだという。
 百五十対の彼らの視線を浴びたロカンタンは、四方の壁をぐるりと見回してからブレヴィーニュ代議士の絵の方へ行こうとするが、貿易商パコームの美しい肖像に引きとめられるのだ。

《彼は頭をいくらか後ろに反らせて立っていた。片手にシルクハットと手袋を持ち、その手をパールグレーのズボンに添えている。私は一種の賛嘆の念を禁じ得なかった。彼には凡庸なところも批判を招くようなものも、何一つなかった。小さな足、繊細な手、レスラーのようにがっしりした肩、控え目で、ほんの少しだけ奇抜な優雅さ。彼は来館者に礼儀正しく、皺のないさっぱりしたその顔を示していた。唇には、微笑の影さえ漂っている。しかし灰色の目は笑っていなかった。五十歳くらいだろうか。だが、三十歳のように若々しく、潑剌としていた。美男だった。
 私は彼のあらを探すのを諦めた。しかし彼の方は私を放さなかった。私は彼の目のなかに、穏やかな、しかし容赦ない判断を読みとった。
 そのとき私は、われわれを隔てているすべてのものを理解した。彼について私が何を考えても、彼はびくともしなかった。それはせいぜい、小説のなかで作り上げる心理みたいなものだ。ところが彼の判断は私を剣のように貫き、私の存在する権利までを問題にしていた。そして、それは本当だった。私はずっと前からそのことに気づいていた。私は存在する権利を持っていなかったのだ。私はたまたまこの世界にあらわれて、石のように、植物のように、微生物のように、存在していた。私の生は行き当たりばったりに、あらゆる方向へ伸びていく。ときおりそれは私に曖昧な合図を送ってよこすが、別なときには、どうでもいいようなざわつきしか聞こえてこなかった。》

 そう、ロカンタンは、ここで自分の存在のあやうさに直面しているのだ。いや、たまたまそうなったのではない、わざわざ危機に向かい合うためにこそ、彼はこの美術館に来たのである。
 戦いはさらに続けられるのだ。

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