hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(28)──午後六時、「また見付かつた。何が?──永遠」

f:id:hosoyaalonso:20230504000059j:image

 前回引用した、人が辟易するほどの長広舌は、独創的でわれわれの意表を突いてくる。
 ロカンタンは、あふれかえる物の豊富さを、実は「陰気で、病弱で、自分を持てあましている豊富さ」なのだと言う──なるほど、なかなか面白い発想ではないか。

《このような豊富さは、気前のよさがもたらした結果ではなく、その逆だった。それは陰気で、病弱で、自分を持てあましている豊富さだった。これらの木、ぎごちないこれらの大きな肉体……。私は噴き出した。なぜなら不意に、本に書かれている素晴らしい春のことを、至るところではじけ、炸裂し、巨大な開花で充満している春のことを思い出したからだ。権力への意志と生存闘争のことを語った愚か者たちがいた。つまり彼らはただの一度も、一匹の動物や一本の木を眺めたことがなかったのか? 円形脱毛症のような斑のあるこのプラタナス、半ば朽ちかけたこの樫、これらを、空に向かってほとばしる若く激烈な力のように思わせたかったのだろう。それならこの根はどうか? おそらく、猛禽の貪欲な鉤爪が大地を引き裂き、そこから栄養物をもぎ取るように、これを想像することが必要だったのだろう。》

 この若者は、生命の開花する「素晴らしい春」を説く者を嗤い、彼らは「ただの一度も、一匹の動物や一本の木を眺めたことがなかったのか」と難じて、世にあふれる自然賛歌に冷水を浴びせているのである。

《物をそんなふうに見るのは不可能だ。ぶよぶよなもの、虚弱なもの、それなら賛成だ。木々はふわふわと漂っていた。これが空に向かってほとばしっているなどと言えるのか? むしろぐったりしている、と言うべきだ。今にも幹が疲れた陰茎のように皺になり、縮こまり、襞のある黒く柔らかい塊になって、地面に倒れるのが見られるだろう、と私は予期していた。木は、存在したいとは思っていなかった。ただ、存在をやめるわけにいかなかったのだ。それだけの話である。そこで木はそっと、大して気乗りもせずに、さまざまな小細工を弄した。樹液は心ならずもゆっくりと道管を通って上って行ったし、根はゆっくりと大地に食いこんで行った。しかし木は絶えず、何もかもすぐにほったらかして、消滅しそうに見えた。》

 若者はむきになって、木々に向かって執拗に、「ただ、存在をやめるわけにはいかなかった」だけで「何もかもすぐにほったらかして、消滅しそうに見えた」などと、ネガティブなイメージを貼り付けていくのだ。
 読んでいるうちに、なにやらいたたまれなくなってくる。
 「疲れて老いた木は、不承不承に存在を続けていたが、それは単に死ぬには弱すぎたからであり、死は外部からしか来られないためだ」──そう、それはまさに私のことだ。「その通り!」と答えようか。また、「今にも幹が疲れた陰茎のように皺になり、縮こまり、襞のある黒く柔らかい塊になって、地面に倒れるのが見られるだろう」とまで言われればむしろ小気味よく、皺だらけの笑みを浮かべて「まいった!」と言うべきか。
 だが、ちょっと待て。これは、樹木や動物の生命について語っているように見えるが、ロカンタンが〈吐き気〉ととも見出したのは、もともと生命ではなく存在だったはずなのだ。「陰気で、病弱で、自分を持てあましている」のは、彼らの命ではなく、そこにはりついた存在の方なのである。

《私たちは、自分自身を持てあましている多数の当惑した存在者だった。私たちの誰にも、そこにいる理由などこれっぱかりもなかった。存在者の一人ひとりが恐縮して、漠とした不安を抱えながら、他のものに対して自分を余計なものと感じていた。余計だということ。これこそ私が、木々や鉄柵や砂利のあいだに確立することのできた唯一の関係だった。私はマロニエの数を勘定し、これをウェレダ像との関連で位置づけ、マロニエの高さをプラタナスの高さに較べようと試みたが、無駄だった。存在する一つひとつの物は、私が閉じこめようとつとめた関係から逃れて、孤立し、あふれ出ていた。その関係(私が飽くまでそれを維持しようとしたのは、尺度や量や方向を備えた人間世界の崩壊を遅らせるためだったが)、私はその関係が恣意的なものであるのを感じていた。それはもはや物に影響を与えなかった。マロニエは、そこ、私の正面のやや左手にあって、余計だった。ウェレダ像も余計だった……。》

 すべての存在は──生命があろうがなかろうが、「余計」de trop なのである

《すべての存在者は理由もなく生まれ、弱さによって生き延び、出会いによって死んでゆく。私は後ろに寄りかかって、瞼を閉じた。けれども直ちに急を告げられたイメージがわっと押し寄せてきて、閉ざされた私の目を存在で満たした。存在は充実であり、人間はそれを離れることができないのである。》

 これは生命の誕生と死ではなく、存在の出現と変容を言うのだ。「怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った──むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊」としての存在、それは「豊富」で「余計」で「無償」であり、すべては「偶然」にある、すなわち、「存在は必然ではない」のである。
 それに対比されるのが「音楽の調べ」les airs de musique なのだ。音楽だけは「自分自身の死を内的必然性として誇らしげにおのれのうちに抱えている」のであり、しかも、「音楽は存在ではない」と言うのである。
 これまでのロカンタンとジャズとの出会いの様を思えば、音楽を別格としたくなるのもうなずけるだろう。だがはたして、存在ではなく、必然としての終わりを抱え、人を動かす強烈な力を持っているものは、音楽だけだろうか。

 『嘔吐』発表の十年後に、作者は次のように語っていたはずである。

《「季節(とき)が流れる、城寨(おしろ)が見える、/無疵(むきず)な魂(もの)なぞ何処にあろう」 Ô saisons, ô châteaux./ Quelle âme est sans défauts?(ランボー中原中也
 誰も問われず、誰も問わない。詩人は不在である。そして、問いは答えを許さない。あるいはむしろ、問い自体がその問いの答えである。では、それは反語なのか。しかし、ランボオが誰にでも欠点はあると「言おう」としたのだと思うのは、馬鹿げている。
 ブルトンがサン・ポール・ルーについて言ったように、「それを言いたかったのなら、彼はそれを言っただろう」。しかしまた、彼は他のことを言おうしたのでもない。彼は絶対的な問いを発したのであり、魂 âme という美しい言葉に疑問形の存在を与えたのである。それこそ、ティントレットの苦悩が黄色い空となったように、それはモノとなった疑問である。もはやそれは意味ではなく、実体である。それは外から見えるものであり、ランボオはそれをともに外から見るように、われわれを招くのである。それが見慣れぬものであるのは、それを見つめるためには、われわれが人間の条件とは別の側に、即ち神の側に位置を占めなければならないからだ。》(『文学とは何か』)

 むろん、ここでいう「モノ」とは、あのおぞましい存在ではない。

《Elle est retrouvée.
 Quoi? - L'Eternité.
 C'est la mer allée
 Avec le soleil.    (ランボー「永遠」)

 また見付かつた。
 何がだ? 永遠。
 去(い)つてしまつた海のことさあ
 太陽もろとも去(い)つてしまつた。(中原中也訳)》

 詩歌、劇、その他あらゆる表現形式、さらには、人間の発する言葉のすべてもまた、「自分自身の死を内的必然性としておのれのうちに抱えている」のではないか。

 だとすれば──。

#サルトル #嘔吐 #ロカンタン #吐き気 #存在 #音楽 #言葉 #ランボー