hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

谷崎文学の今日性─『蓼喰う虫』の“別れる夫婦”

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【旧稿より】4月からの講座で谷崎潤一郎『蓼喰う虫』を読む予定。下記は26年前中日・東京新聞に書いたもの。基本的な読み方は変わっていないつもりだが、はたしてどうなるか。「納得」や「無思想」といった言葉がいま自他にどう響くか、確かめつつ読み直していきたい。

 谷崎文学の今日性──『蓼喰う虫』の“別れる夫婦”

 谷崎潤一郎の小説は死後三十年を経てなお読まれ、受け入れられているようである。三度映画化され、菊田一夫脚色での上演も続いている『細雪』をはじめとして、同じく映画化された『春琴抄』も話題となった。盲目の美女・春琴に危害を加えた“犯人”をめぐっては、昭和五十年代の野坂昭如の「佐助犯人説」に続いて、近年「春琴自害説」までが飛び出し論争となっている。一九九五年の阪神大震災でも谷崎旧居の倚松庵や谷崎記念館は無事であり、さらに同年、谷崎潤一郎研究会が同地で発足したところである。
 一部のファンや研究者たちの“熱狂”は別としても、谷崎文学がいまだにひろく人々をとらえるのはなぜか。その魅力の源泉はどこにあるのか。耽美性、エロチシズム、物語性、通俗性など様々な要素が考えられようが、私はまず何より、小説としての文章のかたちと、その強靱な人間把握の力に注目したいと思っている。それによってこそ、現代につうじる〈了解可能な人間像〉が描かれたのだと考えるからである。『細雪』についてはすでに論じたが、ここでは、一九二八(昭和三)年から一九二九(昭和四)年にかけて新聞に連載された『蓼喰う虫』のすぐれた今日性を指摘したい。
 『蓼喰う虫』はいわば“別れる夫婦”の話である。彼らは恵まれた生活を送りつつ、もはや妻への愛情を失って娼婦の許に通う夫と、夫以外の男とつき合うに至った妻であり、二人の間には小学四年の息子・弘がいる。夫・要(かなめ)は離別後を考えて、妻・美佐子に愛人との交渉を許し、むしろ勧めてもいる。まるで、昨今のTVドラマに出てくるような話なのだ。
 しかし、『蓼喰う虫』の小説としての魅力は、たんにそうした設定の興味深さにあるのではない。たしかにその筋立ては、谷崎潤一郎本人と佐藤春夫との間で起こった谷崎の妻千代の“細君譲渡事件”にからんで興味をそそりもする。一九二〇(大正九)年頃からの谷崎夫婦と佐藤の三角関係は、いったん合意した後の頓挫と絶交、さらに一九三〇(昭和五)年に至っての“解決”と三人連名の「挨拶状」など、話題性に富んだものであった。佐藤春夫は、その前半のいきさつを未完の長篇『この三つのもの』に描いてもいる。
 だが、私がここで注目したいのは、そうした作家本人にからんだ実話的興味ではなく、何より小説『蓼喰う虫』が、離婚しようとする一組の夫婦の感情生活の機微を理解可能なものとして、たしかな現実感をもって描くことに成功しているということなのである。
 彼等はもはや夫婦関係の持続の困難を知り、共に離婚を考えている。しかし、それはなかなか実現されない。はたして彼らは本気で別れようとしているのか、実はそれが問題なのである。夫も妻も互いを思いやり、なるたけ大きな傷を負わずに現状を抜け出ることを願っている。たとえ愛情はさめたとしても、長年つれそった慣れ親しみがあり、それを一度に断ち切るのは堪えられないと思っているのだ。
 子どものことも気がかりである。勘のよい弘はすでに父母の間に異常のあることを察知し、神経質になっている。できれば心に深い傷を負わせずに、納得させたい。すなわち、彼ら夫婦はさまざまな思惑と配慮の中で、身動きがとれなくなっているのである。
 「夫も妻も進んで決定しようとはせず、相手の心の動きようで自分の心をきめようと云う受け身な態度」で「両方から水盤の縁をさゝえて、平らな水が自然とどちらかへ傾くのを待っているような」彼らは、何より「理解し合って別れた」いと考える男女であり、その意味でまさに今日的な合意離婚者たちの一組であると見える。
 大仰な道徳や倫理観から自由に、自分に正直な、そしてその限りで相手の気持ちをも尊重する、といった肩肘はらぬモラルの下、彼らは別れようとしているのである。しかも、その出発点には夫・要の妻に対する性的な見限りがあり、夫の身勝手がある点、さらにそれを夫自身が自らの「冷酷」として自覚している点も(さらには要が、岳父とその妾の京女との古風な関係に惹かれ始めることも)、いかにも今日的に見えてくるのだ。
 伊藤整は、かねてから無思想な作家として貶められてきた谷崎を、性愛によって動かされる人間存在をとらえる思想をこそ提示したのだ、として弁護した。だが、私には、こうした男女の賢くもあり、同時にまた愚かしくもある凡常の生活意識を、なにより〈納得しうる〉かたちで捉えようとした谷崎文学は、むしろその〈無思想〉ゆえにこそ、今日なおたしかな生命を保っていると見えるのである。

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