hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(25)──水曜日(3)ヒューマニズム、「強烈な喜び」と「途方もない怒り」

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 『嘔吐』の後半になって、独学者はさらに印象深くあらわれてくる。
 ブーヴィルの町の図書館の本をAからZまで順に読もうという変人で、ロカンタンが勝手に「独学者」l'Autodidacte と名付けた相手である。独り者で、三十歳のロカンタンより年上らしい。「オジエ・P……」(原注)というだけで、名もさだかではないのだが、『嘔吐』中ではロカンタンをめぐって、研究対象のロルボン侯爵や恋人マリーと並ぶ重要人物となるのだ。伝記を書くために図書館に通うロカンタンを知識階級と見て近づいてきた、「孤独で陰のある」おじさんなのである。
 この「水曜日」(『嘔吐』にはさらに最後の「水曜日」があるのだ)ロカンタンは独学者の誘いを受けて断り切れず、「ボタネ軒」に同行する。そこで、倹約しつつももてなそうとする独学者の好意を、この若いエリートは冷たく見据えるのだ。なぜか。
 昼食の最中に独学者の過去が明かされる。一九一七年にドイツ軍の捕虜になったのだという。十五年前、第一次大戦中の話である。前線での苛烈な塹壕戦も経験したのだろう。ロカンタンは、「彼が戦争で捕虜になった……。その話を聞くのはこれが初めてだ」と驚き、どこで捕虜だったのかと聞くが、独学者はすぐには口を開かない。

《彼は答えない。フォークをおいて、私の顔を食い入るような目で見つめる。きっとこれから彼の心配事を話そうというのだろう。今になって私は、図書館で何かうまくいかないことがあったのを思い出す。私は全身を耳にして彼の言葉を聴く。私はひたすら他人の心配事に同情することしか望まない。それが私を変えてくれるだろう。私にはいわゆる心配事がない。金利生活者のように金はあるし、上役はいないし、妻も子供もない。私は存在している。ただそれだけだ。そしてこの厄介な問題は、あまりにぼんやりした、あまりに形而上学的なものなので、恥ずかしくなるほどだ。
 独学者はしゃべりたがっているようにも見えない。何と奇妙な視線を私に投げかけているのだろう。それは見るためではなく、むしろ魂の交わりのための視線だ。独学者の魂は、何も見えていないような彼の見事な目の縁までせり上がって来て、そこに姿をあらわす。私の魂が同じことをして、ガラス窓に鼻先をくっつけたら、二つの魂はそこで挨拶を交わすだろう。
 私は魂の交わりを望まない。そこまで堕落してはいないのだ。私は身体を後ろに引く。ところが独学者は私から目を離さずに、テーブルの上まで上半身を乗り出してくる。幸いにして、ウェイトレスが彼にラディッシュを持ってくる。彼はふたたび椅子に腰を落とし、魂は目から消える。そして従順に食べ始める。》

 この場面は何だろう。
 独学者は思い入れたっぷりにこちらを見ている。ロカンタンはそれを厭わしく思うが、相手が「魂の交わり」communion des âmes を求めていることを感受するのだ。そして「全身を耳にして彼の言葉を聴」きながら、相手の思索に対してはあくまで共感を拒むのである。場面自体も思い入れたっぷりに、もどかしく進んでいくことに注意しよう。

《「思い違いをなさるのも、ごく自然なことです」と独学者は言う、「あなたに申し上げるべきでした、ずっと前に……。でも、この通り気が弱いものですから。機会を探していたのです」
 「まさに絶好の機会到来ですね」と私は鄭重に言う。
 「私もそう思います。そう思いますとも! これから申し上げようとすることは……」──彼は顔を赤らめて言葉を切る、「でもひょっとして、ご迷惑ではありませんか?」
 私は彼を安心させる。彼はほっと嬉しそうに溜息をつく。
 「あなたのように広い視野と洞察力のある知性とをかね備えたかたに、毎日お目にかかるわけじゃありませんからね。私は何カ月も前から、あなたとお話したいと思っていたのです。私が以前はどんなふうで、それからどうなったかをご説明するために……」
 彼の皿は、まるで運ばれてきたばかりのように、空っぽできれいになっている。私はとつぜん自分の皿の横に、錫の小さな皿を発見したが、そこには若鶏の腿が褐色のソースのなかに泳いでいる。こいつを食べなければならない。》

 独学者は真剣になって己のかけがえのない体験を語ろうとするが、ロカンタンは冷ややかに相手の表情から料理の食べ具合までをじろじろと観察するのだ。独学者はすでにひと皿を平らげ、こちらは鶏の脚にうんざりしているという。滑稽な場面である。
 そんな皮肉に設定された冷気のただ中で、独学者は目を伏せて熱っぽく語り始めるのだ。

《「戦争がやって来ますと、私は自分でもなぜか分からずに志願しました。こうして二年間、私は何も理解しないままでした。というのも、前線の生活には物を考える時間がほとんどありませんし、おまけに兵士たちはあまりに無教養だったからです。一九一七年の末に、私は捕虜になりました。後になって聞かされたのですが、多くの兵士が捕虜になったときに、子供時代の信仰を取りもどしたそうです。と申しましても」と独学者は、熱のこもった瞳を隠すように、目を伏せながら言う、「私は神を信じてはいません。神の存在は〈科学〉によって否定されています。その代わりに捕虜収容所で、私は人間を信じることを学んだのです」
 「みなが勇敢に運命に耐えていたのですね?」
 「ええ」と彼は曖昧に言う、「それもありました。もっとも、私たち捕虜の受けた扱いは良好なものでした。でも、私が言いたかったのは別なことです。戦争の最後の数カ月、私たちにはもうほとんど労働が課されなくなりました。雨が降ると、板張りの大きな倉庫に入れられたのですが、そこにはぎっしりと、およそ二百人くらいの者が詰めこまれていたのです。ドアは閉められて、私たちはほぼ完全な暗闇に、ぎゅう詰めの状態で残されました」
 彼は一瞬ためらう。
 「どうご説明したらよいでしょう。すべての捕虜がそこにいました。ほとんど見えないけれども、こちらの身体にぴったりくっついているのが感じられるし、みなの呼吸も聞こえていました……。最初何回かこの倉庫に閉じこめられたときに、あまりすし詰めだったので、初め私は一度、窒息するのかと思ったくらいです。それからとつぜん、強烈な喜びが私の内部にこみ上げて来て、ほとんど失神せんばかりでした。そのとき私は、この人たちを兄弟のように愛しているのだと感じて、一人残らず抱き締めたいくらいでした。それ以来、その場所に戻るたびに、同じ喜びを覚えたのです」
 この若鶏を食べなければならない。きっと冷えてしまったにちがいない。独学者はとうに食べ終わっているし、ウェイトレスは皿を取り替えるために待っている。
 「この倉庫はそのときから私の目に、神聖な性格を帯びました。ときどき私は見張りの監視の目を欺くことに成功して、一人だけで倉庫に潜りこみました。その暗がりのなかで、そこで味わった喜びの思い出を嚙みしめながら、一種の恍惚感に浸ったのです。何時間も過ぎましたが、そんなことに注意も払いませんでした。嗚咽することさえあったのです」》

 すなわち、かつて若い志願兵であった独学者は捕虜となって、この時、人間愛に目覚めたという話なのである。そんな啓示(エピファニー)体験を耳にしながら、ロカンタンは、なお「この若鶏を食べなければならない」と思いつづけているのだ。あたかも、相手の「強烈な喜び」une joie puissante に懸命に抵抗するかのごとくに。
 なぜ、作者サルトルは、この「田舎のヒューマニスト」の感動体験を、これほどもったいぶったかたちで書いたのだろうか。
 それは、ロカンタンによって冷たく拒まれている。しかし同時に、それは読み手に強い印象を残すのだ。否定しつつも強く記す書き方、言い換えれば、強く記しつつ、なお否定せんとして抵抗しつかみかかるようなものごし、それが「ヒューマニズム」に対する作者の姿勢だったのだ、とでもいえるだろうか。

《私は病気に違いない。今しがた私を打ちのめしたこの途方もない怒りは、ほかに説明する方法もない。そうだ、これは病人の怒りだ。手が震えていたし、顔には血が上り、挙げ句の果てに唇まで震えだした。こういったことはみな単に、若鶏が冷たくなっていたためだ。おまけに私も冷えこんでいたし、それはやりきれない苦痛だった。つまり三十六時間前から身体の芯が今と同じ状態で、氷のようにまったく冷え切っていたのだ。怒りは旋風となって身体中を吹き荒れた。それは何か悪寒のようなものであり、この体温の低下に反応してそれと闘うために、私の意識が行なう努力のようなものだった。無駄な努力である。おそらく私は何でもないことで、独学者なりウェイトレスなりに罵倒を浴びせたり、彼らをめった打ちにしたかもしれない。だがまた私が全面的にそこに巻きこまれることはなかっただろう。激しい怒りは表面で暴れ回っていたが、その一方で少しのあいだ、私は自分が火に包まれた氷の塊であり、つまりオムレット・シュルプリーズ〔アイスクリームの入ったびっくりオムレツ〕であるという、やりきれない感覚を持ったのだ。この表面の動揺が消えたとき、独学者のしゃべる声が聞こえた。》

 いかにもおおげさである。
 ロカンタンは、独学者に向かい合い、小馬鹿にしつつも冷静でいられなくなるほど強い圧迫を感じる。「人間を愛すべし」というヒューマニズムの愚を否定せんとして苛立ち、こらえ切れなくなくなってしまうのだ。「途方もない怒り」formidable colére がロカンタンを動揺させたのだというのである。

《見ることを知らないヒューマニストたちよ! あの顔は実に多くを語っており、実にはっきりしている──しかしヒューマニストたちの優しく抽象的な魂は、決して一つの顔の意味に打たれることがなかったのだ。
 「どうしてあなたは」と独学者は言う、「ひとりの人間を固定して、彼がこれであるとか、あれであるとか言えるのでしょう? 誰がひとりの人間を汲み尽くせるのですか? 誰がひとりの人間の持つ可能性を知ることができるのでしょう?」
 ひとりの人間を汲み尽くす! 独学者がそれと知らずにこの言い方を借用したカトリックヒューマニズムに、私は序でながら敬意を表しておく。
 「知っていますよ」と私は彼に言う、「知っていますよ、すべての人間は素晴らしいということを。あなたは素晴らしい。私は素晴らしい。むろん神の被造物としてですが」
 彼は理解できずに私を見つめ、それから薄笑いを浮かべる。
 「たぶん冗談を言ってらっしゃるのでしょう。でも、すべての人間が私たちに称讃される権利があるというのは本当です。いや、難しいものです、難しいものですよ、人間であるということは」》

 ロカンタンは、独学者の「人間愛」の抽象性や甘さを暴き出し、否定しようとするのだが、いたずらに相手を戸惑わせ失望させるだけである。

《私はいくらか後悔しながら独学者を見つめる。彼は、自分の人間愛を誰かに伝えられるかもしれないこの昼食を想像して、まる一週間のあいだ楽しみにしていた。彼が人と話す機会はごく稀なのだ。ところがこうして、私は彼の楽しみを台なしにしてしまった。考えてみれば、彼は私同様に独りきりなのだ。誰一人、彼のことを心配する者はいない。ただ、彼は自分の孤独を理解していない。そうなのだ。しかし彼の目を開かせるのは、私の役割ではなかった。私はひどく居心地が悪い。たしかに、かんかんに怒ってはいるが、それは彼に対してではなく、ヴィルガンのような手合いやその他の連中、この哀れな頭脳を毒したすべてのやつらに対してだ。もし今、彼らを目の前に連れて来られるなら、言ってやることは山ほどある。独学者には何も言うまい。彼に対しては同情しかない。彼はアシル氏と同じ種類のこちら側の人間で、ただ無知と善意のために裏切ったのだ!》

 地方都市に滞在中の知識人として、「田舎のヒューマニスト」などそつなくあしらえば済むはずだろうに、ロカンタンは苛立ち、自らを追い詰めてしまうのだ。独学者は、なんとか紳士的に、かつ強引に議論をおさめようとする。

《「結局、あなたも私と同じに、人間を愛しておられるんでしょう。私たちは言葉の上で離れていただけですよ」
 私はもうしゃべることができない。私は頷く。独学者の顔は、私の顔のすぐそばだ。得々として、顔すれすれのところで薄笑いを浮かべている。まるで悪夢のようだ。私はやっとの思いでひと切れのパンを嚙んでいるが、それを呑みこむ決心がつかない。人間。人間を愛さなければならない。人間は素晴らしい。私は吐きたい──そして一気にあれがやって来た、〈吐き気〉が。
 ものすごい発作だ。頭の天辺から足先まで私の全身を揺すぶる。一時間前から私は発作がやって来るのに気づいていた。しかし、そのことを認めたくなかったのだ。この口のなかのチーズの味……。独学者が何かしゃべっており、その声は私の耳許で微かにざわざわ鳴っている。しかし何の話をしているのか、もはやさっぱり分からない。私は機械的に頷く。私の手はデザート用ナイフの柄の上で引きつっている。私はこの黒い木製の柄を感じる。それを摑んでいるのは私の手だ。私の手。自分では、このナイフをむしろ放っておきたい。常に何かに触っていても、なんの役に立つだろう? 物は人が触れるために出来ているのではない。むしろ可能なかぎり物を避けながら、物と物のあいだをすり抜けて行く方がずっといい。ときにはそのなかの一つを手にとることもあるが、すぐさまそれを手放さなければならない。ナイフが皿の上に落ちる。その音で、白髪の男はぎくりとして私を見つめる。私はナイフをふたたび取り上げ、刃をテーブルに押しつけてそれを撓ませる。
 つまりそれだったのか、〈吐き気〉は。この明明白白な事実だったのか? 私はさんざん頭を悩ませた! それを書きもした! 今や私は知っている。〈私〉は存在している──世界は存在している──そして私は世界が存在していることを知っている。それだけの話だ。》

 この冷静さを装えないエリート、自らの〈いまここ〉に自足できぬ青年は、とうとう、周囲には全く理解されぬ〈吐き気〉la Nausée を抱えて、ぶざまに退散していくのである。
 何とも後味の悪い、かつ鋭く食い入ってくる孤立者の姿である。相手の孤独を理解しつつも、なお決して共感には至らぬかたくなさがここにあるのだ。
 遺著となった対談『いまこそ、希望を』L'espoir, maintenant で語られ、強いられた変節としてボーボワールをいきり立たせたという、もはやエリートとしての矜持やラディカリズムを脱したかのごとき作者晩年の「友愛」の境地から見れば、ここにはその逆説的萌芽ともいうべき孤立者の痛覚が、激しい苛立ちとともに書きとめられていたのだ、と思えてくるのである。

#サルトル #嘔吐 #ロカンタン #独学者 #ヒューマニズム #孤立者