hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(16)──チグハグなパニック

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 行きつけの店のマスターが部屋で死んでいるというイメージにとりつかれたロカンタンは滑稽である。そのあげく、彼はパニックに襲われたのだという。
 いつものように図書館に行っても不安は消えず、またカフェ・マブリに戻ってみるが、入っていくのさえやっとである。「ファスケル氏はきっと流感にかかったのだろう」と冷静に判断しながらも、実際に部屋まで行って安否を確かめる勇気もなく、「後ずさりでカフェを出た」あとで、突如「正真正銘のパニック」une véritable panique になって走りだしたというのだ。

《家々は陰気な目で、逃げて行く私を眺めていた。私は激しい不安にかられて繰り返し自分に問うた、どこへ行くべきか、どこへ行くべきか、と。どんなことでも起こり得る。》

 それまで、一時滞在者として街を見回り、人々を勝手に識別して、したり顔で論(あげつら)って来た若い知識人が、顔見知りとはいえ他人である中年男の死体を想像するだけで心理的に追い詰められ、極度の不安に襲われるとは、いささか理解しがたい話だろう。
 ロカンタンは、どこに行くかも分からずに逃げる。家々のドアがひとりでに開くのではと恐怖を感じながら走り続け、船着き場などをさまよって人々に怪しまれ、しかたなく図書館に帰ろうとするのだが、公園ではケープをかぶった男が少女にちょっかいを出そうとしているのに出会う。「私は自分が無力なのを感じた」というが、男が私に見られているのに気づいて逃げだすと、さらに追いかけていって話しかけさえもするのだ。
 ボーヴォワールの「推理小説のサスペンスを導入しろ」という忠告の結果とも思われる『嘔吐』のこうしたプロットの過剰な動き──右往左往は、いかにもドタバタめいていて、チグハグである。
 パニックに陥るという設定はもちろん、さらに無我夢中で走り回る中で、水の下の甲殻類の獣を想像し、立ち話をする二人の男の視線に不信感を感じ、公園の鉄柵の向こうで「とっておきの悪戯をしかけてやろうとするように」笑う性犯罪者めいた男に目をとめて「丁寧な口調で」声をかけ、図書館の閲覧室に戻ると『パルムの僧院』を読み続け、また、それ以前にも独学者の性的な問題も匂わせたり等々、作中にはあれもこれもと、雑多なモチーフが散乱しているかのようだ。
 それらは、推理小説のように巧みに、伏線や論証として十分な効果を発揮するのではなく、むしろ物語の整合性を崩壊させ、がらくたのつまった箱がひっくり返ったかのような印象をまでもたらすのである。
 だが、それこそが〈切実〉なのではないか。
 われわれの日常は、ファブリスやジュリアンの活躍する世界でないだけではなく、もちろん、ホームズやポアロの謎解きに適した世界でもないのだ。
 わけのわからぬ出来事の連鎖、意図や思惑をこえた事態の進展、外的のみならず内的状況の急変、そのただ中で、突如顔を出す虚脱感、再びの興奮、破壊、等々、まさに"Tout peut arriver."──どんなことでも起こり得るのが〈いまここ〉なのだ。他ならぬ現場に、われわれはいるのである。

《何一つ真実らしいものはない。まるで不意に取り払うことも可能な厚紙の書き割りに囲まれているような感じだ。世界は息をこらし、身を小さくして待っていた──世界は発作を、〈吐き気〉を待っていたのだ、このあいだのアシル氏のように。》

 結局のところ、閉館時間が来て、ロカンタンは数人の閲覧者たち、小柄な老人や金髪の青年、卒論準備中の若い女などと共に夜の中に出て行き、この「金曜日」のくだりは終わるのだ。
 次の日、カフェ・マブリのファスケル氏は流感にかかっただけだったと判明する。推理小説どころか、三文小説にも及ばぬつまらぬ結末となるのだ。やはり、何事も起こらなかったのである。
 しかし、それらはいかにも〈ありそうな〉チグハグさとも見えてくるのではないか。もし、われわれが、あらためて〈いまここ〉を見回してみれば……。

“Everything happens for a reason.”(あらゆる物事は理由があって起こるのだ)

#サルトル #嘔吐 #ボーヴォワール #パニック #ジョン・フォード