hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

2021-01-01から1年間の記事一覧

『仮面の告白』の〈ゆらめき〉――「盥(たらひ)のゆらめく光の縁」はなぜ「最初の記憶」ではないのか              『三島由紀夫研究』3 鼎書房

一 二様の声 『仮面の告白』(一九四九昭24・7、河出書房)の中には二様の声が響いている。それは〈まだわからなかつた〉という声と、〈理解しはじめてゐた〉という声である。では、何が〈わからなかつた〉というのか? ――むろん〈異常性〉が、すなわち自分…

『愛の渇き』の〈はじまり〉――テレーズと悦子、末造と弥吉、メディア、ミホ             『三島由紀夫研究』1 鼎書房

〈おわり〉は〈はじまり〉を知るが、〈はじまり〉は〈おわり〉を知らない。〈はじまり〉は〈おわり〉の出現によってつねに凌駕されるが、〈おわり〉にとって〈はじまり〉はなお不可欠の淵源である。〈はじまり〉の悪遺伝をかこつ者も、〈おわり〉の蛇尾に歯…

三島由紀夫「遠乗会」論 ―幻滅と優雅、ラディゲ・大岡昇平に比しつつ―

青年期、私は三島文学を敬遠していた。理由は二つあったが、両者は相通じてもいた。第一に、当時私は大江健三郎に夢中になっていたので、三島を受け付けなかったのである。全作を読破したと嘯く三島愛好者が傍にいたことも私の反発を助長した。第二に、私に…

秋山駿の思い出 ―真剣勝負―

小林秀雄は、作家の断簡零墨に至るまですべてを読め、と言った。吉本隆明は、どこでもよい、自分の気になる所を読んだだけでその本がダメかどうかを判断してよい、とまで言い切った。 むろん、どちらも真であり、また、ハズレでもある。すべてを読もうとする…

あゝ、我が敬愛するトルストイ翁! ―思想と実生活論争―

「廿五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わった時、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求めるための旅に上ったという表面的事実を、日本の文壇人はそのまゝに信じて、甘ったれた感動を起したりしたのだが、実際は細君…

三島由紀夫VS東大全共闘 ーー目の中に不安の色を

三島由紀夫は全共闘の学生を前に『テレーズ・デスケイルゥ』を引き合いに出して「諸君も体制の目の中に不安を見たいに違いない」と言ったが、今回『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』で三島の発言場面を見ることができた。 モーリアック『テレーズ・デ…

『豊饒の海』における老い

三島由紀夫『豊饒の海』には、夭折とともに老いがにじんでいる。老いは、あたかも夭折者に添えられた刺身のつまのように、わずらわしく箸にからまり続けるが、やがて読者はそれこそが滋養に富んだ、読み応えある小説のたまものでもあることに気づかされるだ…

三島由紀夫の予言の毒

三島由紀夫の「無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が」残るとの予言が、むしろ楽観的だったと気付くほどの事態が―「日本」がなくなるか否かの心配など悠長と思えるほどの未来が―来ることなかれ、と祈る。…

痛恨也。

『自転車泥棒』Ladri di Biciclette 1948 で、捕まった父を目にした少年の"形相"と、放免された父を気遣い見上げた眼差しが忘れられない。 デ・シーカが街で見つけたという子役とチコニーニの曲が胸に迫る。どこで観たのか。昔の映画館の暗闇の中である。 同…

ハムレット・オン・ザ・ストリート

「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」は、1000年以上前に投稿されたtwitterである。 誰にも理解されぬだろうとの思い自体を書き記し、何者かへと向けて発信することのむずがゆいような自覚と、それが密やかな共感を広げていく動き…

「バイヤー、バイヤー」

不自然な笑顔、ひきつったような無理な笑いなどと言うが、その張りつめた和やかさ、反射神経によるかと思わせるほどの素早い反応に、私の心ははっと動かされる。たとえそれが店員であろうと、同僚であろうと、あるいはまた家族の誰かのジェスチャーであろう…

君の名は

現実は目の前にある、という感覚が我々を支えているが、目の前にある現実は全てではない、という意識が、我々を常に不在へと動かし続けている。 私が時に風車へと向かうのは、風車が私にとって意味を持つからというよりも、風車にとって私が何物かでありたい…

バケツ一杯の水

早稲田の入学式で村上春樹が話した内容を見て、ああ又かと少々がっかりしました。村上は、人間の意識は心という池からくみ上げられた一杯の水に過ぎず、残りは手つかずで未知の領域と言いますが、本当でしょうか。「バケツ一杯の水」の方が実ははるかに難物…