hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(15)──カフェ・マブリ、ファスケル氏は死んだのか、パニック

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 またしても金曜日である。ロカンタンはカフェ・マブリに行く。行きつけで、きびきびと動き廻るマスター、ファスケル氏の一種いかがわしい雰囲気がむしろほっとさせる店なのだという。

《私は独りきりの生活をしている。完全に独りだ。だれともけっして話をすることがない。何も受け取らないし、何も与えることはない。》「一月二十六日 月曜日」

 この若者はこんな気持ちで生活し、毎日カフェや食堂に出入りしているのだという。──なるほど。こうした孤立感は50年前の私のものでもあった。若い頃はそんな張り詰めた思いで生き、考えようとしていたのだ。そして今また、老人となった私も、あたかも半世紀前に戻ったかのような気分なのである。ただし、老人の場合、こんな生き方はいぶかられ、ボケや孤独死の予備軍としてマークされてしまうのである。市の担当者から生存確認の電話が来るほどなのだ。
 私は何とか根付いた町に暮らしているが、ロカンタンは余所者の滞在者である。それでも彼は、行きつけのカフェや食堂で店長や店員の名を覚え、人々を見ている。そして、人それぞれに個性があり、スタイルがあることを見分けているのだ。さすがフランス人というべきか、人間に対する関心を持ち、見ようとしているのである。ただし、その視線の当て方はかなり厳しく、ともすれば凝り固まった人間観による裁断となる。
 安価で手軽なチェーン店に入ることが多い私は、店長の名も知らず、ウェイトレスに文句はあっても、彼女らを品定めするだけの興味もなく、持参の本やケータイをながめているだけだ。スーパーのレジ係の顔は知っているが、名札まで見ることもなく、そそくさと買い物を済ませて帰ることばかり考えている。行きつけの飲み屋もなく、雀荘にもゲートボール場にも行かない、いかにもつまらぬ老人男子の味気ない生活である。いわばFB界隈だけが私のバーチャル・カフェであり、飲み屋でもあるのだろう。そこでは人と直接会うことがない分、かえって勝手な想像ができ、自由な会話もできると感じるのだ。
 同様に、私は今、あたかもこの若者の傍でブーヴィルにいるかのように想像し、アバターのごとく作中に入り込んで若者に話しかけようとさえしているのだ。ロカンタンの歩き廻る街路が、まるで私の脳裏でメタバースと化したかのように。

 そんなロカンタンが、今回はパニックにまでなってしまうのである。
 それは、カフェ・マブリのマスター、ファスケル氏が部屋から降りてこないためなのだという。いったいどうして……。

 朝の九時、ボーイはまだ部屋から降りてこないマスターを気にしている。

《「まだ降りて来ないんですよ。変だなあ。電話もかかってきたのに。いつもなら、八時に降りて来るんだけれど」
 思わず老婆は天井の方を見上げた。
 「あの階上にいるんですか?」
 「そう、あそこが寝室なんだ」
 老婆はまるで独り言をつぶやくように、ぼそっとした声で言う。
 「ひょっとして、死んでいるのでは……」
 「よせやい!」そう言うボーイの顔には、激しい怒りがあらわれた、「よしてくれよ! 縁起でもない」
 ひょっとして死んでいるのでは……。この想像は私の頭もかすめた。このような霧の日になると、人はそうしたことを考えるものだ。》「金曜日」以下同様

 霧の日、電気代を節約した暗いカフェの中で、ボーイが苛立つ。老婆が想像した店主の死が、ボーイだけでなく、「私」=ロカンタンまでも刺激するのだ。ごくたわいもない話と見えるが、使用人の面倒の忌避とは異なり、「私」の感受する不吉さはその精神の不安定を襲うのである。

《レジのうしろの暗がりで、何かがきしんだ。音は私用階段の方からだ。いよいよマスターが降りてきたのか? 違った。誰もあらわれない。階段がひとりでにきしんだのだ。ファスケル氏はまだ眠っている。あるいは私の頭上で死んでいるのかもしれない。霧の日の朝、ベッドで遺体発見──サブタイトルで、カフェの客たちは何も気づかずに飲食中……。
 それにしても、彼はまだベッドのなかにいるのだろうか? シーツごと転げ落ちて、床に頭をぶつけているのではないか? 私はファスケル氏をとてもよく知っている。彼はときどき、身体具合はどうかと訊ねてくれた。肥った陽気な男で、いつも顎髭がよく手入れされている。死んだとすれば卒中だろう。きっと顔が茄子のような色になって、舌は口の外に垂れているだろう。髭を上に向け、その縮れた毛の下で首が紫色になっているだろう。》

 「私」は店を出るが、豚肉屋で金髪の娘が死肉の切れ端を指でつかむのを見て、「五分も行ったところでは、寝室でファスケル氏が死んでいるのだ」と思い、また、料理の卵にかけたマヨネーズに赤い滴がついたのを見て、さらに不安と恐怖が増すというのだ。
 図書館に行って仕事をしようとするがうまくいかない。

《ところが今日はどうだろう。それらの物はもう何も固定していなかった。物の存在自体が危うくなり、一つの瞬間から別の瞬間へと移行するのにひどく難儀をしているように思われた。私は読んでいた本を両手でしっかり握りしめた。しかしどんなに激しい感覚もすっかり鈍くなってしまった。何一つ真実らしいものはない。まるで不意に取り払うことも可能な厚紙の書き割りに囲まれているような感じだ。世界は息をこらし、身を小さくして待っていた──世界は発作を、〈吐き気〉を待っていたのだ、このあいだのアシル氏のように。
 私は立ち上がった。この弱々しくなった物に囲まれてそこにいることには、もはや耐えられない。窓越しに、アンペトラ〔銅像の人物〕の脳天にちらりと目をやった。そしてつぶやいた、どんなことでも発生し得る、どんなことでも起こり得る、と。もちろん、人びとがでっち上げたような類の恐ろしいことが起こるという意味ではない。アンペトラが台座の上で踊り始めるわけではない。それはまた別の話だろう。
 これらの不安定な存在、おそらく一時間後、一分後には崩壊する存在を、私はぞっとしながら眺めた。そうなのだ、私はそこにいた、知識のいっぱい詰めこまれたこれらの本に囲まれて生きていた。ある書物は、さまざまな種類の動物の不動の形を描いていたし、別な書物は、宇宙のエネルギー量がそっくり保存されることを説明していた。私はそこにいた、窓の前に立っており、その窓ガラスは一定の屈折率を持っていた。だがそれにしても、なんと脆い障害だろう! 世界が毎日似たような姿をしているのは、思うに怠惰さのためだ。ところが今日の世界は変わりたがっているように見えた。とすれば、どんなことでも起こり得るだろう、どんなことでもだ。
 無駄にする時間はない。この不安の発端にはカフェ・マブリのことがある。あそこに引っ返して、ファスケル氏が生きているのを確かめ、必要とあれば彼の髭か手にさわってみなければならない。そうすれば私は解放されるだろう。》

 どうやら〈吐き気〉 の本格化がいよいよ始まったようだ。
 なぜこの若者は、これほどファスケル氏の死を気にするのか。死体はもはや人間でなく単なる物体と化してしまう。そのかつて人間であった醜悪なモノは、人が実は身体という物に過ぎないことを暴露するのだとでもいうのか。あるいは、自分の傍に人か物か分からぬ宙づりのモノがあることが不安を掻き立てるのか。
 どうも、私はここら辺から、『嘔吐』という小説につくりものめいた気配を感じるのだ。La Nausée「吐き気」という題名自体にも無理がある。しかし、だからといって、それはただのつまらぬ作り話というわけではなく、むしろ興味深い認知の企てとも感じるのである。世界は物で埋まっている、そのただ中で吐き気を感じる、とはなかなかスリリングな着想ではないか。
 その上で、ここで私に迫ってくるのは、モノの脅威より、「どんなことでも起こり得る」Tout peut arriver.という思いである。
 確かに、この世の「すべて」tout は〈いまここ〉で起こり得るのだ。「何事も起こり得るということと、何事も起こらないということのはざまには、一体何があるのか」──かつての私がノートに書きつけた文句である。そこには、平凡な日常が実は異様な非日常と通底していること、その見分けがつかないことへの不安と苛立ちがあったのだ。

 ロカンタンはここで追い詰められるのである。

《私は正真正銘のパニックに襲われた。もはや自分がどこに行くのかも分からない。私はドック沿いに走った。ボーヴォワジ地区の人気のない通りに曲がった。家々は陰気な目で、逃げて行く私を眺めていた。私は激しい不安にかられて繰り返し自分に問うた、どこへ行くべきか、どこへ行くべきか、と。どんなことでも起こり得る。ときどき私は、胸をどきつかせながら、ぱっと後ろを振り向いた。背後で何が起こっているだろう? たぶん、それは私の後ろで始まるのだろうし、とつぜん振り返っても、もはや遅すぎるだろう。しかし私が物をじっと見つめることができるかぎりは、何も発生しないだろう。だから私はできる限り多くの物を眺めた。敷石を、家々を、ガス灯を。私の目は、変身途中のそれらの不意を襲って、変身を停止させようと、一つの物から別な物へと素早く移動した。それらの物はあまり自然な様子ではなかったが、私は力をこめて自分にこう言いきかせた、これはガス灯だぞ、これは給水栓だぞ、と。そして自分の視線の力で、それらの物を日常的な姿に戻そうとつとめた。道々、私は何度かバーに出くわした。「カフェ・デ・ブルトン」とか、「バー・ド・ラ・マルヌ」などだ。私は足を止めた。薔薇色のチュールのカーテンの前でためらった。たぶんこれらのぴったり閉めきられた酒場は、難を免れたことだろう。たぶんそこには、孤立して忘れられた昨日の世界のわずかな部分が隠されているだろう。しかしドアを押して、なかに入らなければならない。それが私にはできなかった。私はふたたびそこを離れた。家々のドアは、とくに恐怖を起こさせる。それがひとりでに開くのではないかと心配だった。とうとうしまいに、私は車道の真ん中を歩き始めた。》

 またしても、〈いまここ〉の冒険の始まりである。
 これは、いかにもつくりもの臭く、なおかつまた、恐ろしくも実感に溢れた部分なのだ……。

#サルトル #嘔吐 #孤立 #パニック