hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(12)──ロカンタンとムルソー、サラマノ老人

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最近、二人の若者と再会したのだ。
二人ともだいぶ以前に知り合っており、ときどき思い出すことはあったのだが、あらためてまじまじと顔を見ることもなく、その後は何度もすれ違っていたのだ。ロカンタン君とムルソー君である。
二人とも、その日記様の書物の中で、周囲の人間たちに目を向け、彼らの動静を細かく観察し、巧みに特徴も捉えて語っている。主要な場面ではないように見えるが、実はそれらはかなり重要な部分ではないかと私は考えているのだ。
共に若い独身者で、気ままな一人暮らしだ。身寄りもなく、一人は母親が死んだというところから語り始める。仕事と境遇はかなり異なるが、どちらも一応生活には困らず、町で暮らしているという。
しかし、これまで見てきたロカンタンは、食堂で出会った惨めなアシル氏に対しても、また、かなり関わりを持ったはずの「独学者」に対しても、よそよそしく、決して共感を抱かなかったように見えるのだ。むしろ、辟易し、軽蔑さえしているのである。
目の前でヘマをしたアシル氏の挙動を、冷たく観察し続ける若者。共感も関心もないのなら、目を逸らして、女からの手紙でもバルザックでも読み続ければよいのに、彼はこの哀れなおじさんを認識の餌食にし続けるのだ。なぜだろうか。

《またしても、彼は私を見つめている。今度は話しかけてくるだろう。私は自分の身体がすっかりこわばるのを感じる。私たちのあいだにあるのは共感ではない。私たちは似た者同士である、というだけの話だ。彼は私と同じように独りぼっちだが、私以上に孤独のなかにはまりこんでいる。彼も〈吐き気〉か、それに類したものを待っているにちがいない。つまり今では私のことを見破って、顔をしげしげと見てから、こう考える人たちがいるのだ、「あいつはわれわれの同類だ」と。それで? 彼はどうしようというのだ? 私たちが互いに相手に何もしてやれないことは、向こうもよく知っているに違いない。家族持ちは思い出に囲まれて、それぞれの家にいる。そして私たちはここにいる。記憶を持たない二人の落伍者だ。もしも彼が不意に立ち上がって言葉をかけてきたら、私は驚いて跳び上がるだろう。》

寂しいセリバテール同士が食堂の片隅で出遇い、片方は話しかけたくてむずむずしているというのに──。
だが、ロカンタンについてはまた次回以降に考えよう。後で出てくる美術館での肖像画の描写の執拗さなども見ながら。

さて、いま一人の若者、ムルソーはだいぶ違うようだ。たとえアシル氏が話しかけて来ても、ムルソーなら決して「驚いて飛び上がり」などはしないだろう。
ムルソーのそばに寄って来るのは、犬を連れた老人サラマノである。

《遠くの方から、私は、入口の閾のところにいる、何か興奮したサラマノ老人に、気がついた。近づいて見ると、老人が犬を連れていないことがわかった。老人は四方八方見てまわり、一度見て来た道を引き返したり、廊下のくらやみを突っ走ったりした。とぎれとぎれの言葉をぶつぶつつぶやき、血走った小さな眼で、何度も何度も通りを捜していた。》

たしかにムルソーはクールな現代青年で、母親が施設で死んでも動揺せず、葬式の後で喜劇映画も観れば、女とも寝る。果てはアラブ人まで殺してしまうのだ。だが、彼はこの気の毒な老人を擯斥せず、その心臓の鼓動はここで老人の悲劇に共鳴さえしていると見えるのである。

《しばらくすると、老人の足音が聞こえ、戸をたたいている。私が戸をあけると、老人は、ちょっと、しきいのところに立ち止まって、「御迷惑じゃないかね」といった。なかへ入るようにすすめたが、老人は入ろうとはせず、自分の靴先を見詰めていた。瘡蓋(かさぶた)だらけの手が震えていた。顔を伏せたまま、老人はこう私に尋ねた。「連中があいつをとり上げることはないだろう、ねえ、ムルソーさん。あいつを私に返してくれるね。さもないと、この私はどうなるんだ?」野犬の繋ぎ場は、飼主の意思を待って、三日間は犬を預かっておくが、そのあとでは適当に処置するのだと、私はいった。老人は黙って私の方を見つめていたが、やがて、おやすみ、といった。老人は自分のドアを閉めたが、行ったり来たりする足音が聞こえた。そのベッドが、きしきし鳴った。仕切りの壁越しに、かすかに、変な物音がしたので、彼が泣いていることがわかった。なぜか知らないが、私はママンのことを考えた。》

読んでいると、犬好きでなくとも胸が締め付けられるような気になって来る。二葉亭四迷浮雲』の「ポチの話」にも劣らぬほどの出来ではないか。
壁越しに聞こえる「変な物音」は、この世で〈独りぼっち〉になった人間の場所からかすかに響き、それが今、隣室にいる者の耳に達して、泣いているのだ、と理解されたというのである。
「なぜか知らないが、私はママンのことを考えた」──まさに、よく分かる心の動きではないか。末尾の死刑執行前にも再びママンのことを思い「世界の優しい無関心」に心をひらいた、というくだりまでが飲み込めるほどに。

これは、作中人物の相違というより、作者自身の人間性の相違とも見たくなってくる。サルトルはいかにも冷たく、執拗で、厳しい。対するに、カミュは松明を掲げて氷を摑むかのごとく、懸命に張りつめながらクールで、かつ熱く問いかけてくるのだ。
一人の老人としては、冷徹なロカンタンよりはムルソーとこそ、アパートで隣り合わせたいと思う。寂しくなったら、少しは話を聞いてくれそうではないか。だが、ここでは、〈孤立〉ということを受け止め、考えていくために、さらにロカンタンに目を向けて行くことにしよう。
なぜ、彼はかくも冷たく、しかも熱心に、人間たちを見据え、またその愚かしさを目測しつつ、考えて行くのか。
さらに興味も湧いてくるのである。

#サルトル #嘔吐 #カミュ #異邦人 #二葉亭四迷 #浮雲