hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(21)──月曜日(2)「〈物〉 la Chose、それは私だ」

f:id:hosoyaalonso:20230323193247j:image

 「ロルボン大事件は終わった」とロカンタンは言う。
 君は没頭していた対象に幻滅したのか、またしても。「一大恋愛が終わるように」──大恋愛 une grande passion、サルトルが好んで引いたという『失われた時を求めて』の「スワンの恋」のようにか。何と大げさな、が、いかにも若者らしい言挙げである。

《ロルボン氏は私の協力者だった。彼は在るために私を必要としたし、私は自分が在ることを感じないために彼を必要としていた。私は原料を提供していた。私がありあまるほど持っている原料、自分では使い道の分からない原料、つまり存在、私の存在を提供していたのだ。一方、彼の役割は演じることだった。彼は正面から私と向かい合い、彼の生涯を演じるために、私の生を捉えた。私はもう自分が存在していることに気がつかなかった。私はもはや自分のなかでは存在せず、彼のなかで存在していた。》

 なるほど、これはなかなか面白い。
 歴史的人物の理解を深めていき、そのイメージが自分の裡で生動しはじめる。それは文献研究の域を超えて、まるで、今はやりの歴史ゲームへの没入か、あるいは、メタバース上のアバターにでも化したかのようではないか。
 しかもそれを、自分が演じているのではなく、その人物が演じている、自分の「存在」を原料として、などと感じるのが、独特で面白いのだ。あたかも、向こう側ではなくこの現実の方がメタバースへと変じたかのごとくに。

 現代のすぐれたオタク文化論者・大塚英志氏なら、さらに柔軟な表現で縷々説き明かすような感性でもあろうか。だが、この老書生の私にも、少々通じるところがあるようなのだ。
 しかし、まずは、先に行こう。
 ロカンタンは、そして「生ぬるい部屋のなかに何かが残っている」のを見るのだ。

《待ちかまえていた〈物〉la Chose が急を察してざわざわし始めた。それは私に襲いかかり、私のなかに流れこみ、私は〈物〉で満たされた。──そんなことは何でもない。〈物〉、それは私だ。存在 l'existence は解放され、自由になり、私の上に逆流してくる。私は存在する。》

 「〈物〉la Chose、それは私だ。」──これも面白い、しかも理解可能である。「私は物だ」というのとは少しちがう。むしろ「国家、それは私だ」に近い。「私」は「私」と言う以前にすでに物なのだ。「存在 l'existence は解放され、自由になり、私の上に逆流してくる。」──、鈴木道彦氏は l'existence を「実存」とは訳さなかったことのこだわりを記しているが、当然だろう。これはあくまでも物の「存在」なのだ。だが、それが「解放される」とは何か。
 いや、これもまた、アニメ映画の『トイ・ストーリー』や『ミッドナイト・ミュージアム』でも見ているように考えれば、それほど奇抜な想像でもなさそうである。あくまで人間の側の勝手な思い込み、あるいは病的圧迫感ということもできよう。圧迫感はまた、過度の執着や倒錯的な快感へと高じれば「ゴミ屋敷」状態にまで達するやもしれぬ。老生の居室など、まさに……等々思わせてくれるのだ。
 さて、まだまだロカンタン君の自暴自棄とも思しき、“オタク引き籠り的思考”は進行するのである。

《私は存在する。それはやわらかい、実にやわらかい、実にゆったりしている。そして軽い。まるで空中にひとりで浮かんでいるみたいだ。それは動いている。至るところにそっと触れるが、すぐに溶けて消えてしまう。とても、とてもやわらかい。私の口のなかには泡立つ水がある。私はそれを呑みこむ。水は喉のなかを滑り、私を撫でて行く──そしてまたしても口のなかにそれが生まれる。私は永遠に、口のなかに白っぽい──わずかばかりの──小さな水たまりを持ち続けており、それが舌に触れる。この水たまり、それも私だ。それから舌。また喉。これも私だ。》

 鈴木道彦氏は、数ページ後の部分から「内的独白」で「意識が次々ととらえたものをそのまま言語化するという方法」が用いられていると指摘しているが、〈意識の流れ〉はここですでに始まっていると私には見えてくる。

 「私は存在する。それはやわらかい、実にやわらかい、実にゆったりしている。そして軽い。……動いている(かき混ぜる)」
 J'existe. C'est doux, si doux, si lent. Et léger……Ça remue.
 ジェグジスト。セ、ドゥー、シ、ドゥー、シ、ラン。エ、レジェール……サ、ルミュ。

 これは、下手な発音でも、甘美な詩句として耳に伝わるテクストではないか……いやいや、老書生よ、“おフランス状態”は恥ずべしである。
 とはいえど、それは、

 「術もなく苦しくあれば 出で走り  去(い)ななと思(も)へど  児らに障(さや)りぬ」 万葉集巻五 899

という憶良の絶唱に惹かれるのとどこが違うだろうか。どちらも同様に、発せられた音=ことばが痛切に迫るのである。
 さてさて、我が“内的独白”状態も恥ずべき也、と先を見れば、さらにことばがイメージとなって押し寄せてくる。

《私はテーブルの上に広がる自分の手を見る。手は生きている──それは私だ。手は開く。指は伸び、突き出す。手は甲を下にして、脂ぎった腹を見せている。まるで仰向けになった動物のようだ。指は動物の脚だ。私は試みにそれを動かしてみる。うんと速く、甲羅を下にしてひっくり返った蟹の脚のように。蟹は死んだ。脚は縮こまり、私の手の腹の上に引き寄せられる。爪が見える──私のなかで唯一の生きていないものだ。もっともそれもあやしい。手は向きを変えて、うつぶせに広がり、今は背を晒している。銀色の背中が少し光っている──指骨の付け根に赤毛が生えていなければ、魚のように見えるだろう。私は手を感じる。私の腕の先で動いているこの二匹の動物、それは私だ。私の手は、その一本の脚の爪で、別な一本の脚を掻く。私は手の重みをテーブルの上で感じるが、そのテーブルは私ではない。この重さの感覚、それは長く、長く、消えることがない。消える理由はないのだ。ついに、それは耐え難いものになる……。私は手を引っこめて、ポケットに入れる。けれどもすぐさま布地を通して、腿のぬくもりを感じる。たちまち私は手をポケットから勢いよく引き出す。それを椅子の背に添ってぶらんと下げる。今は腕の端にその重さが感じられる。それは少しだけ、ほんの少しだけ引っ張っている。やんわりと、ふんわりと、手は存在している。これ以上しつこくは言うまい、どこへ置こうと手は存在し続けるだろうし、私は手が存在することを感じ続けるだろう。これは抹殺できないし、肉体のそれ以外の部分も抹殺できない。私のシャツを汚す湿っぽい熱も、まるでスプーンでかき回すようにのんびりと身体をめぐっている温かい脂肪も、内部でさまようすべての感覚、行ったり来たりし、横腹から腋の下へと上って行ったりする感覚、または朝から晩まで決まった片隅でおとなしく潜んでいる感覚も、抹殺できないのだ。》

 若い頃はたいして気にもせず、あるいは、いかにも大げさに自分の“哲学”とやらをひけらかすために、でっちあげたような身体感覚ではないか、と皮肉に読み飛ばしていたこうした部分も、かく老いてくると、決して他人事とは思えぬ共感、体感、痛覚、掻痒感、等々となって伝わっても来るのだ。
 まったく、身体とはやっかいなり、と。
 FBを寝床で書き続けていた昨春、スマホ首ならぬスマホ腕か、右肩より二の腕に強烈な痛感が起こり、爾来一年まだくすぶっている始末。さらには毎朝起きるたびに、身体のどこかが悲鳴を上げている、早くしてくれ、もう限界だ、と。もう暫しだ、待て、と宥めつつの日々である。
 もちろん、三十男ロカンタンの身体感覚のオブセッションとはまるで異なりはするだろうが(ひまであるという共通点は、ポイントでもあるのだが)、「私は手を引っこめて、ポケットに入れる。けれどもすぐさま布地を通して、腿のぬくもりを感じる。たちまち私は手をポケットから勢いよく引き出す。それを椅子の背に添ってぶらんと下げる。今は腕の端にその重さが感じられる。それは少しだけ、ほんの少しだけ引っ張っている。やんわりと、ふんわりと、手は存在している」──そうだ、そうなのだと共感するのだ。手や足や胸や腹や尻や頭や目鼻、首、肩が……。

 まさに、

 「物、それは私だ」ラ、ショーズ、セ、モア。

なのだ。
 まったくやっかいな物としての身体感覚を、なかなかみごとに書いていると、今の私には思えるのである。

 「私のシャツを汚す湿っぽい熱も、まるでスプーンでかき回すようにのんびりと身体をめぐっている温かい脂肪も、内部でさまようすべての感覚、行ったり来たりし、横腹から腋の下へと上って行ったりする感覚、または朝から晩まで決まった片隅でおとなしく潜んでいる感覚も、抹殺できないのだ。」

 この一文も秀逸だろう。
 「湿っぽい熱」、「スプーンでかき回すように身体をめぐる温かい脂肪」、そして「朝から晩まで決まった片隅でおとなしく潜んでいる感覚」、それらはこの若者のみならず、我が老体の面倒かつ滑稽な旧友なのだよ、ロカンタン君。

──などと書いてきたら、また腕が痛くなり、少々恥じ入りもしだしたので、今回はここまでとしよう。

 挿絵には、谷内六郎の描いた“風呂の中で眺めた手”を探したのだが、蔵書はすでに散逸し、残念。
 谷内氏はプルーストにも似た極度の過敏症で、部屋の中でテントを張って過ごしていたのだという。『週刊新潮』の表紙になる前の、みごとな暗い秀作の数々は、いまだに私の海馬の向うに浮かんでいるのである。

#サルトル #嘔吐 #ロカンタン #モノ #存在 #憶良 #谷内六郎