hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(7)──日曜日の残り(1)「空虚さという名の充実」

私は今、『嘔吐』(鈴木道彦訳、人文書院)を、kindleで読んでいる。 薄明の中に浮かぶ扁平なデジタル画面は、書中での位置を忘れさせ、タッチパネルに誘われるままあちこちを読み散らしてきたのだ。作中の「私」が街区を転々とする様をなぞるかのように。 …

『嘔吐』を読む(6)──「彼ら」の中の日曜日、そして海

『嘔吐』の日曜日は、『異邦人』の日曜日とは異なっている。 『異邦人』のそれは、〈勤め人の日曜日〉として印象深く読み手に迫って来る。そこには、どこにも出かけず、ベランダの椅子に跨って、ただぼんやりと通りを眺め続ける「私」=ムルソーがいる。対す…

関東大震災100年──来るべき事態への覚醒と覚悟──左翼よいずこへ

新しい年が始まって三週間が経ち、どうやら先行きが、全くの不透明さを含むものとしても、あらためて見えてきたように感じます。内外の危機・問題の厳しさはさらに増して行くことでしょう。しかし、また同時に、われわれの覚醒と覚悟も、いよいよ定まって行…

『嘔吐』を読む(5)──暗い通りと物語

すこし前に戻ろう。恰好な物語の断片が語られていたのだ。そこでは、「私」=ロカンタンが周囲へと向ける視線の動きも確認できるはずである。 《私は左に向きを変える。あそこへ、並んだガス灯のはずれにあるあの穴のなかへと踏み出して行こう。〔略〕少しの…

器量のよくて、心よし

文楽劇場で『義経千本桜』三段目を観た。実に久し振りである。第八波とはいうが、もうそろそろとの思いか客は六、七分の入り。 「鮓屋(すしや)の段」に至る前に、まずは「椎の木の段」。太棹が響き、太夫がおもむろに調子をつけながら唸りだす。 何気ない街…

『嘔吐』を読む(4)──さらに、土曜日

サルトルは『嘔吐』に「メランコリア」という題を考えていたという。デューラーの絵から、そして、もちろん「私」の心のありようからだ。 いったい、「私」(ロカンタン)には何が起こったのか。そしてそれを読んだ50年前の私には何が見えたのか。それを考え…

『嘔吐』を読む(3)──別の金曜日

私は前回、「独学者」を持ち上げ過ぎたようだ。『嘔吐』の「独学者」は、たしかに高邁な目標を掲げているようだが、同時にまた、ロカンタンを著述家とみてすり寄って来る俗人である。教養を求める彼は、決して、自分が読んだものに対して、ドン・キホーテの…

『嘔吐』を読む(2) ──『嘔吐』と『異邦人』、金曜日と日曜日

《寝ることにしよう。私は治ったのだ。まるで小娘がやるように、真新しいきれいなノートにその日その日の印象を書くのはやめにしよう。/ただある場合にのみ、日記をつけるのは興味深いことかもしれない。それは実に……》『嘔吐』「日付のないページ」鈴木道…

『異邦人』――他者との遭遇

曇天の下、一本道を行くと、向こうから女の乗った自転車が近づいてきた。マスク越しに何やら真剣そうな顔が覗いている。左の塀に沿って歩いていた私は、自転車も塀ぎわをやって来るので、手前でかわそうとして右側に移った。すると、女もつられたのか、彼女…

冬の公園

鼻風邪気味だが熱もなく、まさかコロナではなかろうと起き上がる。が、クシャミも出たのでルルならぬパブロン三錠。 天気もよいので朝の散歩。用心してゆっくり歩くと、見慣れた景色も長閑なものに変じてくる。公園のそこここには老人達。ほとんどが一人で、…

『嘔吐』を読む(1)――図書館、独学者の幻影

サルトルの『嘔吐』は図書館が舞台だ。 すべては「私」の日記という体裁である。 地方の図書館で文献調査を続ける「私」=ロカンタンの前に一人の奇妙な男が現れる。図書館に通う熱心な読書家である。ロカンタンは彼を「独学者」と名付ける。「独学者」はロ…

図書館――出会い

図書館には出会いがある。むろん書物との出会いがあるのだが、それ以外にも出会いがあるのだ。かつての公立図書館には高校生に交じって、赤青鉛筆を手に、しきりに持参の本に線引きをしている、受験生というには年かさの男たちがちらほらいたものだ。司法試…

笑顔の人

その人は、院の教え子だが私より年長の団塊世代。東京の一流企業を早期退職して地元に戻り、向学心に燃えて大学へ。他分野を学んで院へ進学、みごと博士号まで取得。今も文化センターの資料室に通って勉学続行中という。聞けば地元の旧家の出で独身。丸の内…

【旧稿より】「伊豆の踊子」の作者

「伊豆の踊子」といえば、あまりにもよく知られた作品である。川端と聞けば即座に「伊豆の踊子」と応ずる人も多いだろう。では川端本人は、生前「伊豆の踊子」の作者と目された自分をどう思っていたのか。 川端の随筆に「『伊豆の踊子』の作者」と題した文章…

ロクさんとケイさんの立ち話

「どうした、正月早々浮かぬ顔だね」「そう見えるかい。そういう君は浮いた顔でご機嫌のようだね」「浮いた顔はご挨拶だね。僕は普通だよ」「普通が一番だ。だが、いつまで普通でいられるか」「君はどうも取り越し苦労だからいけない。いずれなるようになる…

【旧稿より】猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』

書評・猪瀬直樹著『ピカレスク 太宰治伝』 辛辣な本である。だがその辛辣さ、太宰治や井伏鱒二を語って有無を言わせぬ調子には、一種の爽快感がある。読み手はぐいぐいと引っ張られ、埋もれた過去があたかも辣腕刑事のごとき著者の手にかかって無残な姿をさ…

「わけのわからぬ感想」

今日12月30日は横光忌。 これは横光利一『欧洲紀行』の一節である。横光は1936昭和11年、二・二六事件の直前、東京日日、大阪毎日の依頼でベルリンオリンピック観戦と紀行執筆のため渡欧したが、パリではかくも憂鬱な思いを味わったというのだ。それは、吉本…

エコノミスト達よ

本当にそうなのか、経済学界とメディアは一体どうなっているのか。直感でさえおかしいような話も。経済学者よ、エコノミストよ、いずこに。 ●池田信夫@ikedanob経済学は10年前からそういう状態。民放と週刊誌は、昔はリフレ派、最近はMMT。理系でいうと、テ…

もどかしき〈不在〉ー川端文学の魅力ー 【旧稿より】

伊藤整の『変容』(1968昭43)を読んだところである。 初老の画家の私生活、次々と女たちとの交わりを繰り返していく心理が克明に語られ、しかもそれが、この社会のただ中にあって、たしかな現実性をもつものとして迫ってくる。老いたことで、むしろ自在感を…

アマルコルド

むざんやな銀幕上のディカプリオ 樹上かせめてあの駅頭へ 茶半 …仏シャルルヴィル駅 ー余計なお世話だ、俺はギャツビー、米の田舎者よ。ーアマルコルド I remember! おじさん、リミニの樹上にも。ーAドロンもリミニで教師『静けさの最初の夜』と激突死。ーや…

I've got to paint.

I've got to paint まさに挑まん六ペンスたとえ烏の影も無くとも 茶半 "Have you ever thought of death?""Why should I? It doesn't matter."I stared at him. He stood before me, motionless, with a mocking smile in his eyes; but for all that, for a…

へのへのもへ子様

ご電便(小生の造語です)嬉しく拝見しました。例によって不十分な話を丁寧にお聴きいただきどうも有難うございました。 『月と六ペンス』は分からなくて当然です。多くの大人たちがあんな男の生き方を分かり、共感してしまったら、それこそ大変なことになり…

生きざらめやも

中原よ。地球は冬で寒くて暗い。 ぢや。さやうなら。 草野心平「空間」を声にしてみる、早世した畏友・高原達に向けて、 ぢや。そのうち。 として。 孤独だよ君もあいつもその横も 茶半 レイ・ミランド

自由思想の要件

確実な思索を行ってきたはずの仏文学者が、Twitterで以下のような発言をしている。 「からじゃないですか」→「むしろその逆をしている」→「しようとしているのだと思います」→「と断言してよろしいかと思います」と続く論述には、名の知れた責任ある人の公的…

ディストピアの悪夢

NYといっても場所によるのだろうが、ハーレム間近のコロンビア大近辺、クィーンズの下町、韓国人の白タクで行った酒場等、30年前は夜の一人歩きも気楽だった。但し地下鉄には乗らなかった。その後地下鉄も自警団が出来、NYは安全になったと聞いていたが、今…

限りある認識

「とにかく合理的に考えるべきよ、すべからく」と、タマラはいう。「合理か非合理かという二分法自体がはたして合理的といえるのかどうか、などと考えてみたらどうですか」と、私。「そんな余裕はないわ、人生は短いのよ」と、タマラ。タマラは、ユダヤ系の…

深秋の候

少しずつだが長年ため込んだものの整理をしている。 書類等で脹らんだごみ袋を毎回出している。不燃ごみもとうとう大袋一杯になった。月一度の収集日はすでに過ぎているので、しかたなく自分で出しに行くことに。 まず環境事務所で受付をして、遠距離の処分…

どこまで行くか

どこまで行くか、息つぎながら、痛み出だした手足かかえて、滲みはじめた不安もらして、どこまで行くか、わき目もふらず、人であふれる、あの街の先。 むろん自明、と答えたもうな、せめては笑顔ふりまきながら、野越え山越え、もひとつこえて、あの懐かしい…

共同幻想

かつて、吉本隆明の造語「共同幻想」は、いかにもあやうい概念でありながら(我々はそうと知っていたのだ)、「上部構造」の身動きできぬほどの重苦しさや、「社会通念」の息苦しい俗塵にまみれた馴れ合いを、「観念」でさえなく、「幻想」と名指す暴言によっ…

ほんとうのもの──イデアへの希求

椎名麟三は、獄中で「ほんとう」を求めて、徹底して問い直したのだという。その結果、彼の見出したものは政治的信条ではなく、宗教的信仰であった。 目の前にある現実が不十分でいかがわしく、うそうそしいものと見えるとき、人はほんとうのものを求めようと…