hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

2023-02-01から1ヶ月間の記事一覧

『嘔吐』を読む(12)──ロカンタンとムルソー、サラマノ老人

最近、二人の若者と再会したのだ。二人ともだいぶ以前に知り合っており、ときどき思い出すことはあったのだが、あらためてまじまじと顔を見ることもなく、その後は何度もすれ違っていたのだ。ロカンタン君とムルソー君である。二人とも、その日記様の書物の…

『嘔吐』を読む(11)──さらにアシル(アキレス)氏と、コーヒーブレイク

謝肉祭の最終日マルディグラの昼、街角の食堂に、アシル氏はおずおずと寒そうに入って来る。そして、「みなさん。こんにちは」と挨拶してから、着古したコートを脱ぎもせずに席に着き、何にするかと聞かれて、ぎょっとしたように不安そうな目つきをするのだ。…

『嘔吐』を読む(10)──謝肉の火曜日、独身者、アシル氏

思想家サルトルはもはや過去の人となった。その哲学はレヴィ・ストロースの批判以来構造主義以前のものとして片づけられ、性急な政治的姿勢も拠り所を失い、すっかり影をひそめてしまったかのように見える(レヴィ・ストロースの批判がはたして的を射ていた…

『嘔吐』を読む(9)──月曜日、冒険の感情、高等遊民

日曜日の最後に、「私」は「〔冒険の感情は〕来たいときにやって来る。そしてたちまち去って行く。それが去ったとき、なんと私はひからびていることか! その感情は、私が人生に失敗したことを示すために、このように皮肉な短い訪問をするのだろうか?」とぼ…

『嘔吐』を読む(8)──日曜日の残り(2)「それは……彼女なのだ」

しばしの後、「私」=ロカンタンは「デュコトン広場の奥」をめざして動き出す。 《私はふたたび歩き始める。風がサイレンの叫びを運んで来る。私はまったく独りきりだ。しかし、一つの都市に殺到する軍隊のように行進している。この瞬間に、海上では幾隻もの…

『嘔吐』を読む(7)──日曜日の残り(1)「空虚さという名の充実」

私は今、『嘔吐』(鈴木道彦訳、人文書院)を、kindleで読んでいる。 薄明の中に浮かぶ扁平なデジタル画面は、書中での位置を忘れさせ、タッチパネルに誘われるままあちこちを読み散らしてきたのだ。作中の「私」が街区を転々とする様をなぞるかのように。 …