hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(11)──さらにアシル(アキレス)氏と、コーヒーブレイク

f:id:hosoyaalonso:20230217155844j:image

謝肉祭の最終日マルディグラの昼、街角の食堂に、アシル氏はおずおずと寒そうに入って来る。そして、「みなさん。こんにちは」と挨拶してから、着古したコートを脱ぎもせずに席に着き、何にするかと聞かれて、ぎょっとしたように不安そうな目つきをするのだ。

《「ええと、ビルー〔食前酒〕の水割りを」
ウェイトレスは動こうとしない。鏡に映る彼女の顔は、まるで眠っているようだ。じっさい、彼女の目は開いているが、それは割れ目にすぎない。彼女はいつもこうだ。急いでお客に給仕しようとせず、必ずしばらく間をとって、注文の品に思いをはせる。きっと、ちょっとした想像の快楽に耽っているにちがいない。たぶんカウンターから取ってくる瓶や、赤い文字の入った白いラベルや、コップに注ぐ黒っぽいとろりとしたシロップを考えているのだろう。まるでいくぶん彼女自身がそれを飲むみたいだ。》

「私」=ロカンタンの人間観察は中々のものである。
まるでドガのデッサンのように、働く女の姿態を言葉と想像とで写し取る。同様に、アシル氏の動きも、同じく独り客である「私」の目でなぞられていくのだ。貧相な客と、投げやりなウェイトレスの一挙一動が、飽きもせずに見られ、描かれていくのである。
まずは、「割れ目」のような目をして想像に耽るウェイトレスの緩慢さが切り取られ、まるで埃を浴びた観葉植物の鉢のように、食堂の一隅に置かれる。
それに対して、アシル氏は──「私」がアニーからの手紙を読んで、かつての日々を思い出そうとしている間、彼は興味深く「私」を見つめている。見られている「私」は共感を排した視線を返すのだ。
ウェイトレスが、やっと彼の注文した食前酒を運んで来る。アシル氏はウェイトレスに向かって、「アシルというんだがね」と精一杯気取った調子で言う。だが、ウェイトレスは応じない。そこで、アシル氏は突如、その名アシル(アキレス)に相応しからんとするかのように、目を光らせ冷ややかな声をあげるのだ。

《「哀れな娘だ」
ウェイトレスはぎょっとする。私もぎょっとする。男は何とも形容できない表情を浮かべる。おそらく自分でも驚いたのだ、まるで誰か別の者がしゃべったかのかのように。私たちは三人とも気詰まりを感じている。》

みごとな一場である。

私は今、ドトール・コーヒーの片隅でこれを書いている。
ひたすらパソコンやタブレットに向かう会社員や学生らしき若者、談笑する年配の女たち、声を落としてやり取りする中年男の二人連れ、会話の絶えた老夫婦、そして私のように、空になったカップを前に、本やスマホを手にした高齢の消閑者たちが何人も、窮屈そうに、各々の椅子におさまり各自の時を過ごしている。
ここにアキレスはいない。したがって、駿足も大見得も見られず、また弱点の踵を狙われ恥を晒す、といった場面もないはずである。
しかし、ひょっとして、着古した上着を着て壁際に縮こまっている老人の一人が、あの商店街の代表のような顔で声高にしゃべる騒々しい女たちにむかって、何か一言ぐさりと言ったとしたらどうか。

「ああ、たしかにそうでしょうね。」

女たちは一瞬ぎょっとし、周囲も、そして私も、ぎょっとするだろう。で、当の老人は──彼もきっと「何とも形容できない表情」を浮かべているはずだ──「まるで誰か別の者がしゃべったかのように」。そう、それこそが劇的空間の出現となるはずなのだ。
むろんそれは、周囲が観客として、どこまで関心をもつかによるのだが、別役実の一幕のような空気が生じないとも限らない。
そしてさらに続けて、追い詰められたアシルならぬアロンソ氏が、

「はっ、はっ。つい口が滑りました。しかし、まったくみなさんの仰る通りですね。この商店街は、このままじゃとても立ち行かないでしょう。」

などと、口走ったらどうか。
そこまでいけば、トロイアの浜辺ほどではないとしても、我がアロンソ氏も含めた全員が、気詰まりな予感に包まれる一場となるだろう。

周囲の客は皆、日本人らしく、見ないふりして見るという巧みな芸当で見続け、小賢しい連中は、アロンソ氏の紅潮した異様な顔つきを鋭く見てとり、そそくさとスマホタブレットを抱えて退散、となるはずだ。そして私も──自分がアロンソ氏とならぬように、逃げだす一人なのだ。現実は見ずに想像するに限る、などと愚かしく呟きながら。

だがいずれにせよ、亀の子は、氏のほんのわずか前を歩き続けるだろう。
我らがアロンソ氏が、いかに顔を上気させ、何やら低く唸りながら、震える手で空になったカップを鷲掴みにしようと、その横で強靭な婦人連が堂々と、あたかも何事も無かったかのようにまた談笑を続けようと、臆病者たちが早々に退散しようと、居眠りしていた老人たちがやっと目を覚まそうと、投げつけられた空のカップが床に当たってこなごなに砕けようと、店員の一人が掃除の手を止めて店長に連絡を入れようと、依然のろのろと、しかし決してとどまることなく、進んでいくのだ。
〈いまここ〉という亀が……。

#サルトル #嘔吐 #アキレスと亀 #いまここ #別役実 #ドガ #ドン・キホーテ