hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(9)──語りがたいもの

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 むろん、養子縁組を解消して手切れ金まで得た島田が、元親子の情を持ち出して健三に復縁や金銭を求めるのは欲深過ぎることで、それを追い払うのは当然であり、道義的には決して〈捨てる〉ことにはならないだろう。しかし、たとえ過度な金銭的要求を排するためとはいえ、人間的関係を絶つというのは、やはり拒むことになるのである。すなわち、健三はふたたび〈父〉を捨てざるをえない場に至ったといえるのだ。
 島田は〈父〉であったのだと考えてみれば、島田との再会が健三を深く揺り動かしたのも、もっとものことと思えてくるだろう。何より彼は幼時、この〈父〉の子であったのであり、そして今また、突如現れた「その人」によって否応なしに、あらためて〈子〉として凝視されたのである。
 島田にとっては、こうした接近と金の無心は他にすべもない道であり、あるいはそれもまた〈父と子〉のつながりの確認であったのだというべきなのかもしれない。島田の「異様の瞳」は、健三自身の信ずる「異様の熱塊」とその切実さにおいて、まさに見合っているのである。
 関荘一朗「『道草』のモデルと語る記」(『新日本』1917.02)や、鷹見安二郎「漱石の養父―塩原昌之助―」・「「道草」の世界」(『世界』1963.10, 12)によれば、養父塩原昌之助の金之助に対する執着は並大抵のものではなかったと思われる。塩原の〈父と子〉のこだわりの深さと関係のもつれは、人間漱石を考える上で見落とせないものの一つである。鷹見の「昌之助は人間漱石に最も深刻な影響を与えた人物といって過言ではない」との指摘は重いのだ。

 双方のこだわりの根はいかにも深い。そして、健三にとって島田へのこだわりは、〈自分はどこから来たのか〉という根源的な問いと深くかかわっているのだ。だからこそ、傍観者としての細君には見えすいた無心の始まりとしか見えない島田の出現が、健三自身には「一体何のために来たのだろう」(十七)という一見迂闊にも聞こえる疑問の開始となっているのである。健三によって選び取られようとした「正しい方法」も、そうしたこだわりにかかわるものであったとすれば、その語りがたさのほどが理解できてくるのだ。
 しかし、こうした健三による島田の〈父〉としての受け止めは、「正しい方法」と同じく、語りがたい根源的なものとして、作中ではもどかしいほど奥に置かれているのである。それは、いわば『道草』の隠された重心ともいえるだろう。
 健三の〈迂闊さ〉は作品世界の中にあって、それら〈語りがたいもの〉をそのまま静かに覆い、また同時に、とまどいや驚きによってそれらを支えてもいるのだ。
 健三は細君の前で煮えきらぬ説明を繰り返し、細君の無理解と〈語り手〉による批判にもさらされ続ける他はない。それは、人の心が分からぬという思いに悩まされつつ、自身の心をもつかみかねて、過去へと目をやる者のすがたをしているのである。
 作中、「黙って姉のぱさ/\した手の平を見詰め」る健三(四)や、島田の来訪を受けて「黙って」座り続け、ときおり庭に目をやる健三(十七)、あるいはまた、うたた寝する細君の寝顔を「不安」とともに「見詰めて」「黙って立ってい」る健三(三十)など〈黙る健三〉のすがたは、なんとも印象的である。
 小説世界をつかさどる〈語り手〉の饒舌の中で、それらは頼りない一瞬の像に過ぎないものである。だが、まさにそれゆえにこそ、生きている個の感触、味わいを伝えるものと見えてくるのだ。
 「御前は必竟(ひっきょう)何をしに世の中に生まれて来たのだ」(九十七)という自問は、まさにこうした健三のただ中にあらわれるのである。それは先の、島田は「一体何のために来たのだろう」という〈迂闊な問い〉と同じ深みからやって来た声なのだ。

 描かれた動作や記された会話、あるいは心中の声などの個々の魅力が、小説世界の味わいを深めている。それはすでに述べたように、読者に〈語り手〉の統御の及ばぬひろがりと奥行きがこの世界にはあるのでは、という印象をも与えるのである。
 突如あらわれた〈父〉におびやかされた主人公は、こうした作品世界のひろがりの中で、ときに〈迂闊な健三〉や〈黙る健三〉として照らし出される。それらがさらに〈語り手〉の姿勢の強さと反響し合うことによって、『道草』に独特の深みと味わいをもたらしているのだ。それは現実感と滑稽味をともなった、過去から現在へと至る喪失と持続の感受の物語なのである。
 健三は結局なにがしかの金を払って〈父〉を拒むのだ。彼は迂闊さの中でいったいどのようにそれを選び取ったのか。我々はあらためて、記された言葉をとおして健三の心中に目を向けるだろう。それはまた、〈語り手〉の向こうにいる者の方へと、あらためて目を向けることとなるのである。

 末尾で、ふたたび子を産んだ妻を前に、さらなる父となった健三がつぶやく言葉は、人の世のただ中にあって生を持続する感触を、いかにもわかりやすい平明なものとして伝えている。

 「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」百二

(了)

#漱石 #道草 #健三 #島田 #父