hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(31)──最後の水曜日の前に、ドスト先生の痛覚

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 こうしてロカンタンは、ブーヴィルを発とうとするのである。
 感傷にまみれることは日記では許される。むしろ、それこそが人目にさらさぬ日記の効能だろう。思い思いの感慨をもって自照し、納得するためにこそ、人は日記を書くのだ。
 だが、それを人目にさらす小説とした場合はどうか。気恥ずかしくなるような手記を、一体どのようにして、読み手を動かす力あるものとして仕立てるのか。ドストエフスキーが『貧しき人々』で延々と綴った愚かしい〈おじさんの手紙〉は、その感傷と自己憐憫にまみれた文面自体が、ふしぎな力で読み手をとらえるものとなっている。では、この『嘔吐』の、こまっしゃくれた〈若造の日記〉は、はたしてどうか。

《今日でここの生活は終わる。明日になると、足下に広がる町、あれほど長く暮らしてきたこの町を、私は離れているだろう。ブーヴィルはやがて、私の記憶に残る一つの名前にすぎなくなるだろう、ずんぐりした、ブルジョワ的な、いかにもフランス的で、フィレンツェやバグダットほど豪華ではない一つの名前だ。やがてある時期になると、私は不思議に思うだろう、「それにしても、ブーヴィルにいたときは、いったい一日中何をしていたのか?」と。そして今日のこの太陽、この午後については、何一つ、思い出さえも残りはしないだろう。
 私の全生涯は背後にある。それがそっくり見える。その形や、私をここまで引っ張って来たゆるやかな動きが目に映る。これについて言うべきことはほとんどない。私の負けだった、そのひと言に尽きている。三年前、私は粛々とブーヴィルに乗りこんできた。そのときは、すでに一回戦に敗れていたのだ。しかし二回戦を試みようと思い、ふたたび負けた。つまり勝負に敗れたのだ。同時に私は、人が常に敗れるものであることを知ったのである。勝つと思っているのは〈下種ども〉だけだ。》(火曜日)

 そしてこの後、前回引いた「私もアニーのようにするだろう、私は余生を送るだろう。食べて、眠る。眠って、食べる。そしてゆっくりと、静かに、存在するのだ、あの木々のように、水たまりのように、電車の赤い座席のように。」という、大見得切った文句が出てくるのだ。まさに老人には笑止と見える「余生」の宣言である。
 この若くして既に金利生活者となりおおせた欧州近代特権層の青年は、自分の「負け」partie perdue を認めながら、なおかつ「下種ども」les Salauds に向かって毒づくことをやめない。Salauds と大文字なので、〈下種ども〉と鈴木氏は強調しているわけだ。すでに何回か出てきた罵倒表現で、町の名士たち、お歴々、富裕層など、すなわち「ブルジョワ」に向かって吐かれた言葉である。だが、さてそれは、と考えても、彼は「ブルジョワ」をどう理解し、批判しているのかほとんど書かれていないのだ。そんなことは分かり切ったことだ、ミシュレを読め、とでもいうかのように。
 あのブーヴィルの美術館でロカンタンは、町を築いた名士たちの肖像を一枚一枚丁寧に眺め、それこそ想像力を駆使して描かれた者の人生を思い描き、その上で痛烈にこき下ろしていた。まさに「下種ども」と毒づいていたのだ。それこそ見事な読み応えのある、かつ、何とも後味の悪いくだりである。そこには、作者サルトルの嫌味が濃厚にあらわれているとさえ感じられる。小説の言葉を通常をこえた何かと思い込みがちの私は、そこにも何らかの意味を探り出したくなってしまうのだが、それはさておきである。
 私は、こうした乱暴な〈ブルジョワ批判〉に、いかにもご大層な思索的小説とされる『嘔吐』の単純さ、気恥ずかしいほどの自尊露呈の恥部を感じるのだ。それは私に、『貧しき人々』や『地下室の手記』を読むときの、押し寄せる気恥ずかしさやうんざりさせられるほどの迫力とは異なる、しらじらしくも鼻持ちならない冷たさを感じさせるのである。むろん、そこには私自身の読みの〈かたむき〉があるのだ。
 では、私の〈かたむき〉は、この小説をいったいどう読みくだすのか。それを書くことが、まさにこの連載の目的であり、それはあと数回で終わるはずである。そして、それに関わってくるのが、他でもないあの独学者先生なのだ。彼は、「最後の水曜日」になって再登場し、目も当てられない醜態を見せ、無残にも消えていくのである。ロカンタンは彼を見て、一体、何を考え、何を思い、どう行動するのか。それをこれから見ていこう、私は私の〈かたむき〉とともに。
 ロカンタンは、お歴々のみならず、多くの市民の住むブーヴィルを「ブルジョワ都市」cité bourgeoise と見て満足し、安心しきっているとし、「馬鹿者め。」Les imbéciles.と罵しるのだ。

《この丘の頂から眺めると、何と彼らから遠くにいると感じることだろう。まるで自分が別な種族に属しているようだ。彼らは一日の仕事を終えると事務所を出て、満足げに家々や辻公園を眺め、これが自分たちの町だ、「立派なブルジョワ都市だ」と考える。彼らは怖がらない。わが家にいるように感じているのだ。彼らが見るのは、蛇口から出る飼い慣らされた水や、スイッチを押すと電球からほとばしり出る光や、支柱で支えられている交配された雑種の木々ばかりである。すべては機械的に行なわれ、世界は一定不動の法則に従っており、彼らは毎日数えきれないほどその証拠を見ている。空中に捨てられた物体はみな同じ速度で落下するし、公園は来る日も来る日も、冬は午後四時、夏は午後六時に閉められる。鉛は三百三十五度で熔け、最終の電車は市役所前を二十三時五分に出発する。彼らは平穏無事で、いくらかもの悲しい。彼らは〈明日〉を考えている。つまり単なる新しいもう一つの今日を。町にとって自由に使えるのは、毎朝同じように戻って来るたった一つの日しかない。日曜日になると、人びとはほんの少しだけめかしこむ。馬鹿者め。彼らの分厚い安心しきった顔をまた見るのだと思うと、うんざりする。彼らは規則を定め、民衆主義(ポピュリスム)の小説を書き、結婚し、子供を作るなどという極め付きの愚行までやってのける。》

 察しのよい諸兄姉はとうに気づかれたであろうが、こんな若者の暴言にこだわって、せっせと引用を繰り返している私は、他でもない、五十年前の自分を思い出しているのである。いかにも若者らしい、青臭い既成秩序への反撥がそこにはあるのだ。
 では、はたしてそこに、あのドスト先生の如き、己をめぐる痛覚はあるのか。ロカンタンは己をどのように感受しているのか。そこでいよいよ、独学者先生の出番となるのである。

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