hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(7)──日曜日の残り(1)「空虚さという名の充実」

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 私は今、『嘔吐』(鈴木道彦訳、人文書院)を、kindleで読んでいる。
 薄明の中に浮かぶ扁平なデジタル画面は、書中での位置を忘れさせ、タッチパネルに誘われるままあちこちを読み散らしてきたのだ。作中の「私」が街区を転々とする様をなぞるかのように。
    だが、ここでは、あらためて一巻の流れを追うべく、自分の〈読み〉を整えていこう。
 前回の最後に、美しい海辺の場の余韻を残そうとして、私は、まだ「日曜日」が「美しい夜の光と共に残っている」と書いた。しかし、実際はどうか。決して「美しい」だけではないだろう。いやそれ以上に、これから読もうとする「日曜日の残り」は、かなり重要な部分なのだ。

 まずは、海岸に光が差す。

《最初に点灯された明かりは、カイユボット灯台だった。一人の少年が私のそばで立ち止まり、恍惚とした表情でつぶやいた、「ああ! 灯台だ!」
 そのとき私は自分の心が大いなる冒険の感情で膨れあがるのを感じた。》

 これは美しい場面である。海浜を照らす灯台の最初の光、そして、それに感嘆する少年のつぶやき。ここで、「私」=ロカンタンは動かされるのだ。
 いざ「冒険」をせん、とする感情、みずからの生をはじめとおわりのある一つの物語として実現したい、との思いで彼は奮い立つ。「彼ら」=市民社会の人々の日曜日の中にまぎれこんだ自分をもどかしく感じていた青年が、一瞬にしておのれを取り戻し、この世界をみずから動いていこうというのである。

《私は独りきりだ。大部分の人たちは家庭に戻って、ラジオを聴きながら夕刊を読んでいる。終わりかかった日曜日は、彼らに苦い味を残したが、すでに彼らの心は月曜日を向いている。だが私には月曜日も日曜日もない。あるのは無秩序にひしめき合う日々と、そこへとつぜん訪れるこのような閃光ばかりだ。》

 こうした感性は、50年前の私のものでもあった。粗野で視野の狭い、だが、鋭い意識で周囲を識別しようとする、焦燥にかられた青年の倨傲と不安、それはすでに陳腐な絵柄として“現代文学”の格好の素材と化している。しかしなお、そうした孤立者の意識は、いまもこの世界に日々うごめいているのだ。若者のみならず、町にあふれる高齢者の意識にも通じるのである。老人は、この世界と離れんとするみずからをかかえ、まさに自然に、かつ強烈に〈孤立〉を感受する者といえるのである。
 そして、それは今、やはり「彼ら」とのへだたりを感じる老人である私の姿でもあるのだ。

《私は左に折れ、ヴォワリエ街を通って小プラードに着く。ショーウィンドーにはすでに鉄のシャッターが下ろされていた。トゥールヌブリド街は明るかったが、人通りは絶えて、今朝の束の間の栄光を失っていた。この時刻になると、周囲の道からこの通りを区別するものはもう何もない。かなり強い風が吹いてきた。鉄板でできた大司教の帽子のきしむ音がする。》

 ナゴヤにいる私も、錦通りを左に折れ、葵の裏道を通って新栄に着く。コンビニ以外の店舗の灯りは消え、19号線の茫漠とした空間に沿ったビル群は、行き交う車両に照らされて一瞬うつろな表情を見せるだけで、堅固にたたずみ静まり返っている。ビル風にあおられながら、私も都会の暮方の路上を進んでいくのだ。

《何も変わりはしなかったが、にもかかわらずすべては普段と違った形で存在している。私にはそれを描くことができない。まるで〈吐き気〉のようで、しかもそれとは正反対だ。要するに一つの冒険が私の身に起こっているのであり、自分自身に問いかけてみると、〈起こっているのは、私がまさに私であって今ここにいる〉〔傍点付〕、ということであるのが分かる。夜をかき分けて進んでいるのは〈この私〉だ。私は小説の主人公のように幸福である。》

 ちょっと待ってくれ、ロカンタン君。
    第一文はよく分かる。「何も変わりはしなかったが、にもかかわらずすべては普段と違った形で存在している」──それは私にもよくある感受だ。周囲を、見た目は何も変わらず、しかも、昨日までとはまるで違った顔つきをした町ように感じる。二日酔いをはじめ、ちょっとしたきっかけでおこる気分の落ち込みや、小金が入った安堵で町をうろついた後で辺りを見回したときに感じる疎ましさ等々。それはもはや、私にとって日常の親しい苦みのひとつだ。しかし、君はそれを今「冒険」のとば口と言うのか。
 たしかに、君の若さは、そうした周囲との違和を、あの〈吐き気〉とは別もの、「正反対」のものとして、わくわくするような「冒険」のはじまりと感じ、自分を「夜をかき分けて」進む「小説の主人公」になぞらえて「幸福」を感じているのだろう。それもまた私には分かる気がする。
 無謀な高揚感、いずこへとも知れぬロマンチシズムに煽られた一人芝居、にわかに目つきを変え、コートの中の拳を固めて安酒場をめざすような気持ち。それはかつての私にもしばしばおとずれた感興の高まりだ。だが、日曜日の残りかすのような夜の中で、君はこれからどこへ向かおうというのか。
 〈起こっているのは、私がまさに私であって今ここにいる〉とは、まさに、私がこの〈読み〉の記述でつかもうとしている〈いまここ〉の感受である。私も君とともに動くことで、読む者である私自身の〈いまここ〉を見出し、再認したいのだ。

《何かが発生しようとしている。バス=ド=ヴィエイユ街の暗闇には、私を待ちかまえている何かがある。あそこで、この静かな通りのちょうど角のところで、私の人生が始まろうとしているのだ。私は宿命的な感情を抱きながら、自分が前進するのを見ている。その通りの隅には、一種の白い標識がある。それは遠くからだと真っ黒に見えていたが、一歩ごとにいくらか白くなっていく。少しずつ明るくなっていくこの暗い色の物体は、異常な印象を与える。それがすっかり明るく、白くなったら、私はそのすぐ横で足を止めよう。そしてそのとき、冒険が始まるだろう。》

 これが私には分からないのだ。
欧州の古い都会のただ中に色分けされ、意味付けられた街区なつらなりがある。それを、君はさらに自身の「冒険」における特別なトポスとして名指そうというのか。たしかに、かつての私も酔眼で睨んだシンジュクのガード下に、「ここがロドスだ、ここで跳べ」と書きなぐったペンキの文字を見て、何を馬鹿なと思いながらも、苦い共感を抱いて左へ曲がり、西口の思い出横町へと向かったものだが……。
 しかし、「私の人生が始まろうとしている」とは! そこまで言い切れるのは、君の言語と文化のふてぶてしいまでの自尊があってこそだろう。もしわれわれが、「私の人生が始まろうとしている」などとニホンゴで書けば、たとえ人には見せぬ日記の中でさえ、歯の浮いた気恥ずかしい文言と化してしまうことは間違いないのだ。しかもそれが、「通りのちょうど角のところで」などと芝居がかった仕草のミエまでついているときては、何とも君の言語文化の厚顔振りには驚かされるのだ。
 それでも、せっかくここまで来たからには、私も恥ずかしげもなく君に寄り添い、さらにその内的「冒険」に付き合うこととしよう。こうした私の書きよう自体が、いかにもわれわれにとっての外国文学じみたバタ臭い〈独白〉体となっていることは、むろん私も意識しているのだ。しかし、どうやら今の私にはそんな児戯にも似た方法で〈読み〉を語ることがふさわしく、また、恥ずかしげもなくそうするだけの年齢ゆえの厚顔と時間とが、私の手元にはあるのだ。

《この闇のなかから浮かび上がる白い灯台、それが今はすぐ間近に迫ったので、私はほとんど恐怖に近い感情を抱く。ふと引っ返そうかと考える。しかしこの魔法を解くのは不可能だ。私は進む。手を延ばす。標識に触れる。
 ここがバス=ド=ヴィエイユ街だ。暗闇に聖女セシル教会の巨大な塊が潜んでおり、そのステンドグラスが光っている。鉄板の帽子がきしむ。分からない、いったい世界がとつぜん引き締まったのか、それとも音と形のあいだにこれほど強力な統一を与えたのはこの私なのか。私をとりまく周囲のものがどれもこれも、今あるものと違うことがあり得るなどとは考えることもできない。
 私は一瞬、足を止める。そして待つ。心臓の鼓動を感じる。人気のない広場を目で探る。何も見えない。かなり強い風が出てきた。私は間違っていた。バス=ド=ヴィエイユ街は中継ぎの場所にすぎなかった。私を待っている〈もの〉は、デュコトン広場の奥にあるのだ。》

 「白い標識」が一瞬「白い灯台」に変じる。かなりの緊迫感の中で、「私は進む。手を延ばす。標識に触れる」と意識の流れを記したあげく、結局、「宿命的な感情」で見据えられた「白い標識」は違っていたというのか。「私は間違っていた」という敗北宣言の潔さも、また若さゆえだろう。しかし、エキサイトメントはまだ失われてはいない。次の目標は、「デュコトン広場の奥」だというのである。
が、ここでしばし「私」は佇むのだ。

《私は急いでまた歩き出そうとはしなかった。すでに自分が幸福の頂点にふれたような気がする。マルセイユで、上海で、メクネスで、これほど充実した感情に到達するために、私はどんなことでもやってみたのではないか? 今日の私はもう何も待っていない。空虚な日曜日の終わりに、私は帰宅しようとしている。充実感はそこにある。》

 どうした、ロカンタン君。
 すでに「幸福の頂点」にふれたかのように感じながら、今日はかつてのような挑戦をするだけの気力もなく、空虚な日曜日の終わりに帰宅しようとしているのか。しかも、それこそが今自分に「充実感」をあたえているのだ、とは。
 なるほど、翻訳の当否は別として、それも私にはまた分かるような気もしてくる(デジタル版の原文がAmazonに無いことが残念だ)。たしかに、かつてのような「充実」への挑戦などはおぼつかないが、そんな今の「空虚」をも、ある「充実」として受け止められる心境に君は至ったのか。だとすれば、それは「空虚さという名の充実」とでもいうべきだろう。
 だが、それこそわれわれ老人には親しい常日頃の感受なのだよ、と言ったら、君には分かってもらえるだろうか。

 と、ここまで書いたらもう十分だろう。その通り、こうして、私はこの若者の物語を、老人の読者として〈読み崩そう〉としているのだ。いや、さらに言えば、特異な青年の奇譚であるはずの『嘔吐』も『異邦人』も共に、この世界で誰もが感受しうる、誰もがつながりうる〈いまここ〉から読みひろげていきたいと思っているのである。

 まだこの「日曜日」には残りがあるのだが、それはまた次回にとっておこう。

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