hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(8)──島田とは何か

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 健三の裡に過去が蘇ってくる。幼い頃、健三は養父母である島田夫婦とともにあったのだ。

《然し夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
 彼等が長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父(おと)ッさんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼を指さしした。
「じゃ御前の御母(おっか)さんは」
 健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
 これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。
「じゃ御前の本当の御父ッさんと御母さんは」
 健三は厭々ながら同じ答えを繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故だか彼等を喜こばした。彼等は顔を見合せて笑った。》四十一

 これが島田夫婦の養父母としてのありかたを端的にあらわした場面である。どうだろうか。
 ここに描かれた養父母は何とも愚かに見えるだろう。「父母」をたずねて繰り返される彼等の問いは、そのもくろみとは裏腹に幼い健三の心に突き刺さっているのである。
 この部分の感想を何人かの若者に聞いてみると、まずはその養父母としての愚かさ、執拗な問いの逆効果が指摘される。中には、それはやはり彼等が「養父母」であるからであって、「実父母」ならばしないことだろうといった反応も聞かれる。さらには、どこか厭らしさがある、こんなひどいことをするのはやはり「血のつながり」のないせいではないか、といった根強い偏見を含んだ決めつけが続く場合もあるのだ。
 また時には、これはむしろ普通の養父母ならば慎重にかまえて口には出さぬ問いではないか、それを繰り返すこの二人はどこか“変な養父母”ではないのか、といった意見も出てくる。
 しかし、そのまた後で、たしかにそういわれてみれば、実父母ならばむしろこうした問いを無造作にすることもできるのではないか、といった受けとめもあって、問題はふたたびもとにもどるのである。
 こうした議論の中であらためて見えてくるのは、養父母としての島田夫婦が作品上で〈否定的に印象づけられている〉という事実である。『道草』の読者にとって、健三とともに島田を疎んじ、厭うべき者と受け止めるのはいともたやすいことなのだ。
 しかし、ここで見方をかえれば、作中から浮かび上がって来るのは、何より島田と御常の親たらんとする願望の強さであるといえるだろう。特に母たらんとする御常の執着は激しい。彼女の問いは執拗さそのものとして幼い健三を脅かし続ける。それはいわば〈生まずの母〉の執念と不安を響かせているのである。
 その思惑はどうであれ、彼等はまさに〈父母になろうとした者〉たちなのである。しかし、幼い健三はそれを知らない。健三にとって彼等はまさに〈父母〉であったからである。父と母の「不安」はそのまま子の心を標的とする。そこには愚かさがあり、皮肉があり、悲劇があるといってよいだろう。まさに、養父母は「自然」のために「彼等の不純を罰せられ」(四十一)、健三の「気質も損はれ」(四十二)たのである(12)。
 ふたたびここで、これらが回想する健三自身の場に立った〈語り手〉による表現であることを確認しておこう。
 かつての「養父母」に大きな非を見、そこに「養子」としての自身の幼年期の問題の中心を見るのは他でもない現在の健三自身であり、その傾きが〈語り手〉によって伝えられているのである。そうした回想の中では、引用の傍点部のような〈父母〉としての彼等の「喜び」や「笑い」は不可解なものとしてすでに干からび、「不安」のみがきわだっているのだ。
 しかしまた、一方で作中には次のような回想もあらわれて来るのである。

C《健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵(こし)らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦(ボタン)が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。〔略〕しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。〔略〕
 その人は又彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵、錦絵、二枚つゞきの絵も彼の云うがまゝに買ってくれた。彼は自分の身体にあう緋縅(ひおど)しの鎧と龍頭の兜さえ持っていた。彼は日に一度位づゝその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。》十五

 幼年期の満たされた思い出の断片がここにはある。それは、健三の裡に「不図」、「続々湧いて来る」(十五)記憶であり、そのどれもがみな「その人」すなわち島田と切り離せずにあることに彼は「苦し」(同前)むのである。

《凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明(あざやか)に彼の心に映るもの許(ばか)りであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕(れいさい)の事実を手繰り寄せれば寄せる程、種(たね)が無尽蔵にあるように見えた時、又その無尽蔵にある種(たね)の各自(おの/\)のうちには必ず帽子を被らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えている癖に、何故自分の有(も)っていた其頃の心が思い出せないのだろう」
 これが健三にとって大きな疑問になった。》同前

 ここにもまた〈迂闊な健三〉がいるのだ。それは、もはや他者理解の遅延にとどまらず自己認識の遅延であり、自己把握のずれに悩む者のすがたである。

《実際彼は幼少の時分これ程世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。
「しかしそんな事を忘れる筈がないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合が欠けていたのかも知れない」
 健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。》同前

 これはいったいどういう自己把握だろうか。
 それは過去の「恩義相応の情合」そのものの欠如を語るのではなく、「その人」に対する「心持」の記憶の欠如を語っているのだ。
 あたかも彼の「何時も抜けな」い玩具の「脇差し」(十五)のように、現在の健三の前に幼年期の自身の心はかたく閉ざされているのである。我々読者は、それはその後につづく「その人」との離別と面倒な金銭がらみの長い経験にまつわる、苦い記憶の重量によるものなのだろう、と受け止めることができるのだ。
 健三には何かが見えなくなっている。しかもそのことを彼自身が感じている。それがここでの健三の〈迂闊さ〉のありようである。
 「多分この方だろうと自分を解釈した」という言葉のぎごちなさは、いかにもそうした自己把握の不如意の感じをあらわしている。同時に、その反面に、ひょっとして自身の過去は「この方」ではないかもしれない、すなわち「恩義相応の情愛が欠けていた」のではないのかもしれない、という不安をものぞかせているのだ。
 しからば島田とは健三にとって何であったのか。「幼時の記憶」の「無尽蔵にある種(ため)の各自(おの/\)のうちに」織り込まれた「その人」とはいったい何者か。
 すでに何度もふれたように、再会した島田に対する呼称は丁寧な「その人」とややぞんざいな「この男」との間を揺れ動いている。そこには、何やらぴったりとした呼び方があったはずなのに出てこない、今の自分にはうまく呼ぶことができない、といったもどかしさが感じられる。
 では、「その人」は本来何と呼ばれるはずだったのか。かつて、健三は島田を何と呼んでいたのか。もちろん、それは「御父ッさん」以外ではない。
 島田は健三にとって、他ならぬ父だったのである。
 そしてまた御常は、その時何より母であったはずである。引用部Cの「その人」を「父」と置き換えてみればどうか。幼い健三の日々において島田がまさに父親であったことが感じられるだろう。

C’《健三は昔父に手を引かれて歩いた。父は健三のために小さい洋服を拵(こし)らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦(ボタン)が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。〔略〕しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。〔略〕
 父は又彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵、錦絵、二枚つゞきの絵も彼の云うがまゝに買ってくれた。彼は自分の身体にあう緋縅(ひおど)しの鎧と龍頭の兜さえ持っていた。彼は日に一度位づゝその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。》十五

 ここに描かれたのは、失われた「御父ッさん」と「御母さん」の記憶にまつわる物語なのだ。しかも、それは記憶の上だけでなく生活の実際の上でも失われたのである。
 さらにいいかえれば、彼等は〈捨てられた父〉であり〈捨てられた母〉でもあった。そしてそこには〈捨てられた子〉が残された。「健三は海にも住めなかった。山にも居られなかった」(九十一)のである。
 ここには家庭の悲劇の断片があるのだ。
 御常は、島田との不和、離別を経て〈捨てられた妻〉となり、さらに必死で自己の側に置こうとした〈子〉にも離反される〈母〉としてあらわれてくる。何ともあわれであり、また滑稽なすがたである。健三のその間の印象を語る「間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった」(四十四)「彼女〔御常〕は又突然健三の眼から消えて失くなった」(同前)という表現の身もふたもなさは、両親の破婚のさなかにあって翻弄される子の心象を通したすぐれた描出であるといえるだろう。
 しからば彼等を捨てた者は誰か、それは島田であり、御常であり、また健三の実父である。いわば彼等は互いを捨て合ったのだともいえるだろう。
 しかし〈捨てられた〉健三自身もまた、彼らを〈捨てた〉のだといえるかもしれない。実家にもどったのち、実父の態度の急変が健三の実父に対する情愛を「根こぎにして枯らしつくした」(九十一)後で、島田の要求におびえ、「給仕になんぞされては大変だ」と「何遍も同じ言葉を繰り返し」(同前)ながら己れの道を求めた健三は、必死で島田とのつながりを切り捨てたのである。
 それは彼等によってまるで「物品」(同前)のように扱われた健三にとって無理からぬことであり、作中では何ら批判の対象とはされていないのだが、いつかその記憶の中の〈父〉の像は干からびかたく閉ざされてしまうのである。吉本隆明が、島田を「無形の罪障感」の「具体的なすがた」(『言語にとって美とはなにか』)として捉えているのは注目すべき指摘である。
 「どうかこうか給仕にならずに済んだ」(同前)と自らを振り返る健三の裡に、すぐ続けて「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」(同前)という、茫漠とした問いが浮かんで来ていることを見逃してはならない。そこには、健三が「今の自分」を手に入れるために失った世界の重さが記憶の欠落のかたちで響いているのだ。
 そして今、健三はふたたび〈父〉を捨てざるをえなくなるのである。

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