hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『蓼喰う虫』を読む(2)──やれやれなるほど、だがそれにしても、か

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 こちらが年を取ったせいか、さらに分かりやすさが増したように感じるのである。
 もとから決して難解だったわけではなく了解可能な小説と見えていたのだが、さらにやれやれなるほど、といった思いが強まってくるのだ。了解は必ずしも共感ではなく、うんざりもさせられつつ、まあそうなのだろう、とたしかに受け止めることができる、といったあんばいなのだが、さて──。
 何より、まずは本文である。

《要に取って現在の妻が実際妻らしい役目をし、彼女でなければならない必要を覚えるのは、ただこの場合だけであるので、そう云う時にいつでも彼は変にちぐはぐな思いをした。殊に今日のように、うしろから襦袢(じゅばん)を着せてくれたり、襟を直してくれたりされると、自分たち夫婦と云うものの随分不思議な矛盾した関係が、はっきり感ぜられるのであった。誰がこう云う場面を見たら、自分たちを夫婦でないと思うであろう。現に家にいる小間使にしても下女にしても、夢にも疑ってはいないであろう。彼自身ですら、こうして下着や足袋の面倒までも見て貰っている自分を顧みれば、これでどうして夫婦でないのかと云うような気がする。何も閨房の語らいばかりが夫婦を成り立たせているのではない。一夜妻ならば要は過去に多くの女を知っている。が、こういう細かい身の周りの世話や心づくしの間にこそ夫婦らしさが存するのではないか。これが夫婦の本来の姿ではないのか。そうしてみれば、彼は彼女に不足を感ずる何ものもないのである。………》

 こうした、いたって自己中心でありながら、なおかつ他を気遣う姿勢をも着実に保とうとする、いわば賢明で良識ある、言いかえれば、ずる賢いとも見える紳士であるエゴイストの夫・要の思いはどうか。
 要は、すでに隔たってしまった自分たちが、日常のただ中でなお夫婦らしさを保っている(と見える)ことを「随分不思議な矛盾した関係」などと見ているが、実は、それこそごく普通にありふれた夫婦の実態ではないか、と言うことも可能である。また、女中たちがそれを「夢にも疑ってはいないであろう」というのも、いかにも甘い。後の『細雪』や『台所太平記』に比べれば、より夫の若さが感じられるだろう。
 さらには、「これが夫婦の本来の姿ではないのか。」云々と自問して、最後は「………」となるくだりも決して際立ったものではない。
 が、同時に、「自分たち夫婦と云うもの」などという、いわば歯の浮いたようなダイレクトな物言いの率直さが、ある小気味のいい了解可能性をもたらしてもいるのだ。
 そしてここで、この夫は妻の身体のあれこれを「視る」のである。

《両手を腰の上へ廻してつづれの帯を結びながら、彼はしゃがんでいる妻の襟足を見た。妻の膝の上には彼が好んで着るところの黒八丈の無双の羽織がひろがっていた。妻はその羽織へ刀の下げ緒の模様に染めた平打ちの紐を着けようとして、毛ピンの脚を乳(ち)へ通しているのである。彼女の白いてのひらは、それが握っている細い毛ピンを一とすじの黒さにくっきりと際きわ立たせていた。研みがき立ての光沢(つや)のいい爪が、指頭と指頭のカチ合う毎に尖とがった先をキキと甲斐絹(かいき)のように鳴らした。》

 谷崎お得意の、身体と衣装とが一体となった量感と、その動きをともなった描出が光る場面である。贅沢な布地やこまごまとした装具が肉体の各部と触れ合って互いを際立せる美の様相を、まさに〈目を引くもの〉として具体的に示しているのだ。

《長い間の習慣で夫の気持を鋭く反射する彼女は、自分も同じ感傷に惹き込まれるのを恐れるかのように殊更隙間なく身を動かして、妻たるもののなすべき仕事をさっさと手際よく、事務的に運んでいるのであるが、それだけに要は、彼女と視線を合わせることなく余所(よそ)ながら名残りを惜しむ心で偸(ぬす)み視ることが出来るのであった。》

 さりげなく妻・美佐子の視点あるいは、夫・要の推測ともいえる部分を挿入しつつ、「それだけに要は……」と、妻の身体を「偸み視る」夫の意識を際立たせているのである。それは、たんに視点移動あるいは混在などといった小説作法云々をこえて、いままさに、夫が妻の心身の動きを意識しつつ、妻の肉体の各所に向けようとしている視線を感じさせる表現となっている。

《立っている彼には襟足の奥の背すじが見えた。肌襦袢の蔭に包まれている豊かな肩のふくらみが見えた。畳の上を膝でずっている裾すそさばきのふきの下から、東京好みの、木型のような堅い白足袋をぴちりと篏めた足頸が一寸ばかり見えた。そう云う風にちらと眼に触れる肉体のところどころは、三十に近い歳としのわりには若くもあり水々しくもあり、これが他人の妻であったら彼とても美しいと感ずるであろう。今でも彼はこの肉体を嘗て夜な夜なそうしたように抱きしめてやりたい親切はある。ただ悲しいのは、彼に取ってはそれが殆ど結婚の最初から性慾的に何等の魅力もないことだった。そうして今の水々しさも若々しさも、実は彼女に数年の間後家と同じ生活をさせた必然の結果であることを思うと、哀れと云うよりは不思議な寒気を覚えるのであった。》

 「性慾」を感じないという男の目によるにもかかわらず、見据えられた肉体がいかにも性的に感じられるのはなぜか。それはむろん、「偸み視られた」女体として提示され、また、「他人の妻であったら」や「抱きしめてやりたい親切」などといういい気なものである夫の内言が、他者を肉身として対象化せんとするわれわれの性的欲求を刺激するからでもあるだろう。まったくもってけしからぬ話だが、最初から「何等魅力がない」と思っていた妻と、これまで子もつくり、いかにも「夫婦らしい」日常を送ってきたというわけなのである。
 やれやれ、しかし、これもまたやや広げてみれば、この世の習俗による男女の持続的結合の一例として十分あり得るものとも見えてくるのだ。
 それにしても良識ある読者としては、「哀れと云うよりは不思議な寒気」とまでいうのはさすがに、とでも言っておくべきだろうが、これもあくまで夫の心中の秘として、その冷酷と未練、さらに親愛等々が混ぜ物となった思いをかかえつつ、「夫婦らしい」言動を続けている〈いまここ〉が描かれているのである。

《そう云っている時、小間使いのお小夜(さよ)が襖(ふすま)を開けた。
「あのう、須磨から奥様にお電話でございます」》

 先刻の「小間使いにしても下女にしても……」という夫の判断が、ここで一瞬逆なでされたかのようなスリルと、まさにいま話題としていた妻の愛人への電話が、向こうからかかってきたという、いかにも分かりやすい刺激的効果をもった一コマで「その一」は閉じられるのである。
 どうやら安心して付き合える、紳士的エゴイズムと上品なエロティシズム、そして十分に楽しめる場面運び、等々が続きそうである。
──が、はたしてそれだけだろうか。

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