hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『蓼喰う虫』を読む(3)──「自己愛」の醍醐味

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 ラ・ロシュフコー流に言えば、まさに「自己愛」と見えるのではないか。
 いかに人柄の良いできた夫であるか、妻子の心中をもきめ細かく慮って慎重にことを進めようとし、また一方で、いかに柔軟な知性と現代的な倫理観をも保持して、いざとなれば敢然と己の考えを開陳しうる良質な紳士であることか、とおだやかながら迫ってくる部分である。

《たまに日曜の折などに、小学校の四年へ行っている弘を中に挾みながら、親子三人で出かけることはないでもないが、それは近頃、うすうす父と母との間に何事かが醸されつつあるのを感づいたらしい子供の恐怖を取り除けるためで、今日のように夫婦が二人で出歩くことはほんとうにもう幾月ぶりか分らなかった。弘が学校から帰って来て、父と母とが手を携えて出たことを聞いたら、自分が置いて行かれたのを淋しがるよりも、実はどんなに喜ぶであろう。―――しかし要は、それが子供にいい事だか悪い事だか判断に迷った。ぜんたい「子供々々」と云うが、既に十歳以上になれば、気の廻り方は格別大人と変ったことはないのである。彼は美佐子が、「外の者は気が附かないのに、弘は知っているらしいんですよ、とても敏感なんですから」と云ったりするのを、「そんなことは子供としては当り前だよ。それを感心するなんかは親馬鹿と云うもんだ」と、そう云って笑うのが常であった。それ故彼は、いざと云う時は大人に対すると同じように、すべての事情を子供に打ち明ける覚悟をしていた。父も母も、孰方(どちら)が悪いと云うのではない、もしも悪いと云う者があれば、それは現代に通用しない古い道徳に囚われた見方だ、これからの子供はそんなことを耻じてはいけない、父と母とがどうなろうともお前は永久に二人の子だ、そうしていつでも好きな時に父の家へも母の家へも行くことが出来る、―――彼はそう云う風に話して子供の理性に訴えるつもりでいた。それを子供が聴き分けない筈はないと思った。子供だからと云っていい加減なうそをつくのは、大人を欺くのと同じ罪悪だと考えていた。》(その二)

 むろん、「自己愛」と言っても、これは作中の要自身の発話ではないとすれば、かくもすぐれた配慮をしうる者として自己を意識する様が、とでも言うべきだろうが、読み手はこの夫がどれほどすぐれた見識を持った人物か、と見せられるのである。そして当然それは、自らをモデルとして描出する作者その人の自己愛をも思わせるのだが、いずれにせよ、なかなかよく考えているな、たしかにそう言われてみればそうだろう、などと納得しうる男の内面が、こなれた言葉のつらなりによって見えてくるのだ。
 さらに、夫の思慮は続く。

《ただ万一にも別れないで済む場合が想像せられるし、別れるとしてもまだその時機がきまったと云う訳ではないので、成るべくならば余計な心配をさせたくない、話はいつでも出来るのだからと、そう思い思いつい延び延びになっている結果は、やはり子供を安心させたさに惹き擦られて、喜ぶ顔が見たいために妻と馴れ合いで睦ましい風を装うこともあるのである。しかし子供は子供の方で、二人が馴れ合いで芝居をしていることまでも感づいていて、なかなか気を許してはいないらしい。うわべはいかにも嬉しそうにして見せるけれども、それも事に依ると親たちの苦慮を察して、子供の方があべこべに二人を安心させようと努めているのかも知れない。子供の本能と云うものはそう云う時に案外深い洞察力を働かすもののように思える。だから要は親子三人で散策に出ると、父は父、母は母、子は子と云う風に、三人が三人ながらバラバラな気持を隠しつつ心にもない笑顔を作っている状態に、我から慄然とすることがあった。つまり三人はもうお互に欺かれない、夫婦の馴れ合いが今では親子の馴れ合いになり、三人で世間を欺いている。―――なんで子供にまでそんな真似をさせなければならないのか、それが彼にはひとしお罪深く、不憫に感ぜられるのであった。》

 みごとな述懐である。なめらかにしてなお確かな論理に裏打ちされた文章の、込み入った心理の動静を着実にたどり表出しようとする動きが、読み手を先へ先へと牽引してゆく。なるほどそうなのか、と了解しつつ、また、それはこうも考えられるのではないか、などとさらなる解釈をも誘われる喜び――それこそが小説『蓼喰う虫』のすぐれた力ではないかと思うのである。
 それは、はたして子供の心理はそれほど整然としたものかといった問いをも誘発しつつ、「らしい」「事に依ると……のかも知れない」「のように思える」などの丹念な物言いによって示されることで、まずは綿密な思考として了解可能なものとなっているのだ。
 そのおだやかにしてかつ強靭な論述の動きは、そのあげく、思い入れたっぷりの「―――」(谷崎は三マス分で表記)を付した「それが彼にはひとしお罪深く、不憫に感ぜられる」という述懐にまで至ることで、ぬかりなく読み手を共感へと向けようとするのである。そこにも、この夫の、知性のみならず、感性のゆたかさ、そのバランスのとれた人間味の魅力的な提示があるといえるだろう。そして、それはまさに、われわれのすぐれている(はずの)自己像にもにじり寄り、われわれ自身の「自己愛」をも満たしてくれるものともなるのである。

《彼はもちろん自分たちの夫婦関係を新道徳の先駆者のような態度を以て社会へ触れ廻る勇気はなかった。自分の行っていることには多少の恃むところもあり、良心に耻じる点はないのであるから、まさかの場合は敢然として反抗しないものでもないが、そうかと云って、強いて自分を不利な立ち場に置きたくはなかった。父の代ほどではないにもせよまだ幾らかの資産もあり、名義だけでも会社の重役という地位もあり、かつかつながら有閑階級の一員として暮して行くことの出来る身として、なるべくならば社会の隅に小さく、つつましく、あまり人目に立たないように、そして先祖の位牌にも傷をつけないようにして安穏に生きて行きたかった。》

 そうなのだ、われわれも日々あれこれ配慮し妥協しつつ、なお何とか己の欲得をこそ満たさんと努めているエゴイストに他ならぬと自嘲することさえ可能な余裕ある大人なのだ、との自認の域にまで、谷崎の人間把握の動きは読み手を牽引していこうとするかのようではないか……やれやれ。
 そのあっけないほどの俗人世界の了解の分明さ、卑小さが、確実な論理性を保持した文の動きによってつむがれたものこそが谷崎文学の素地ではないか、と私は考えるのである。そしてそれは、これもまた”他ならぬもの“としてのわれわれの世界であり、われらはその渦中にある卑小な存在として自らを省み、その余裕を自ら楽しむ(寂しむ)こともできると思うのであるが、貴兄貴女のご嗜好や如何。
 むろん、ロシュ先生に倣えば、以上もまた、私自身の「自己愛」(ラムール・プロプル)の表出に他ならぬものとなるのである。

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