hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

【にくまれ口 逆立ちグルメ】

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学生食堂にはA定、B定とあり、つねにB定(食)と決めていた。時に廉価設定ゆえのレバかつとなり、つゆ知らずにかぶりついたとたんに滲み出る不味さ、落胆は忘れられない。が、これぞ修行、と飲み込んだものである。
食い物によって左右などされまいぞ、との気持ちだったのだ。うまいもの食いたさに節を折るなど真っ平ごめん、と力んでいたのである。
爾来半世紀、美味は美味として認めはするが、それがどうした、との力みは消えぬ。TVにネットに溢れるジョーホーに抗して、一錠で済むミールを求めることしきり。一錠で終わるライフも又。
米国で生活し、味気なさに驚き、かつ喜んだのはコーヒーである。日本の“アメリカン”などよりもっと薄い、まるで出がらしの麦茶。ガススタンドなどには、無料で置いてあったものだ。
散々手をかけ、豆の美味をむりやり絞り出し、全てを我が口中に、などと欲望漲る日本流“珈琲”が苦手なのである。しかも香りが死んでいる店が殆ど。エスプレッソなどもってのほか。何やらの器と苦さを、金を払ってまで褒めるは愚の骨頂と。
香り高き“薄いコーヒー”をこそ、と思えど中々。米国の通常のコーヒーは無論香気などどこへやら、なれどいかにも飲みやすく、胃にもやさしい。マスターの蘊蓄も、世界各地の豆のひけらかしも無し。気楽そのもの。
今の日本で……と思えば、そう、Macの120円コーヒーの気安さがあり。そも、美味たる必要もなく、ポリフェノール云々すら無用。ただの麦茶の心やすさ。怪しげな肉団子パンは食わねど。
なるだけ人間の悪知恵でリョーリと称する死体処理などせぬ素味素食をこそ、と思うが、それもまた、裏返しの粗食追求のこだわりとなって卑しい。
なにを食った、かにを食った、などおくびにも出さず、雨ニモマケズ、美味ニモマケズ、飯半合と味噌と少しの野菜で……と思えど嗚呼、日暮れて生細し、なのである。 妄言多謝

【『細雪』を読む(2) ── 日常の感触】

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 正月早々の大地震で大変なことになっているが、『細雪』にも昭和13年阪神大水害が書かれている。激しい水流に飲み込まれそうになったり、水没する部屋からかろうじて脱出する様などが如実に描かれているのだ。戦争や災害以外にも、病気や流産があり、若者の悶死まで出てくる。
 『細雪』は、病気で始まり病気で終わる、と言われる。それは冒頭の幸子の「B足らん」(脚気)と、末尾の雪子の下痢を指しているのだが、その間にも様々な身体の不調が起こるのである。ただし、それらは我々にも十分ありうるトラブルと見え、なお日常の持続は保たれていくと感じられるのだ。
 上巻は雪子の縁談が主筋で「雪子の巻」、中巻は妙子の恋愛事件が起こって「妙子の巻」、下巻は「雪子・妙子の巻」で両者の出来事が相次ぐという、分かりやすい構成である。作中時間は、1936昭和11年11月から1941昭和16年4月で、作者自身が「日支事変の起る前年、即ち昭和十一年の秋に始まり、大東亜戦争勃発の年、即ち昭和十六年の春、雪子の結婚を以て終る。」と述べている(「上巻原稿第十九章後書」)。

 上巻では、雪子が二度見合いをする。一度目の相手は、四十一歳の瀬越である。サラリーマンで初婚、大阪外語の仏語科卒という。冒頭は、三女雪子の見合いを前に、次女の幸子と四女の妙子が相談する場面である。

《「こいさん、頼むわ。―――」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方(そちら)は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋(えもん)の顔を他人の顔のように見据えながら、
「雪子ちゃん下で何してる」
と、幸子はきいた。
悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」》(上巻、一)

 大阪弁の声に続いて、視線、動作、位置関係、身体等の細部が次々にあらわれ、それらの主体が幸子なのだと最後に明かされる一文となる。読み手の耳目を順を追って引く巧みな書き出しといえるだろう。
 雪子は目下悦子(幸子の娘)の相手で当分二階に来ないと知った幸子は、下の妹・妙子に語りかけるのだ。

《「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、又一つあるねんで」
「そう、―――」
姉の襟頸から両肩へかけて、妙子は鮮やかな刷毛目をつけてお白粉を引いていた。決して猫背ではないのであるが、肉づきがよいので堆(うずたか)く盛り上っている幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える。
「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、―――」
「そう、―――」
「サラリーマンやねん、MB化学工業会社の社員やて。―――」
「なんぼぐらいもろてるのん」
「月給が百七八十円、ボーナス入れて二百五十円ぐらいになるねん」
「MB化学工業云うたら、仏蘭西(フランス)系の会社やねんなあ」
「そうやわ。―――よう知ってるなあ、こいさん
「知ってるわ、そんなこと」》

 十分に練られていながら自然と思わせる会話の流れの中で、幸子の(話題の中心である雪子のではない)「肉づき」や「濡れた肌の表面」の描写がこれ見よがしに挿入される。女の肉体美と計算高さとが、いやでも目に飛び込んでくるのだ。
 「サラリーマンやねん」のひとことに、この姉妹の上層意識があらわれているとも見える。大阪弁の「なんぼぐらいもろてるのん」が若い私をウンザリさせたのが懐かしい。大阪人の押しの強さにはかなわない、たしかに言われるとおり『会社四季報』でも見るように見合い相手は探すべきなのだろう、などと思ったものだ。
 テクスト自体がフォローしている。

《一番年下の妙子は、二人の姉のどちらよりもそう云うことには明るかった。そして案外世間を知らない姉達を、そう云う点ではいくらか甘く見てもいて、まるで自分が年嵩(としかさ)のような口のきき方をするのである。》

 こんな解説が今後も、人称を持たぬ〈語り手〉によって挟まれて行く書き方なのである。

《「そんな会社の名、私(あたし)は聞いたことあれへなんだ。―――本店は巴里(パリ)にあって、大資本の会社やねんてなあ」
「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」
「そうやて。そこに勤めてはるねんて」
「その人、仏蘭西語出来はるのん」
「ふん、大阪外語の仏語科出て、巴里にもちょっとぐらい行(い)てはったことあるねん。会社の外に夜学校の仏蘭西語の教師してはって、その月給が百円ぐらいあって、両方で三百五十円はあるのやて」
「財産は」
「財産云うては別にないねん。田舎に母親が一人あって、その人が住んではる昔の家屋敷と、自分が住んではる六甲の家と土地とがあるだけ。―――六甲のんは年賦で買うた小さな文化住宅やそうな。まあ知れたもんやわ」
「そんでも家賃助かるよってに、四百円以上の暮し出来るわな」
「どうやろか、雪子ちゃんに。係累はお母さん一人だけ。それかて田舎に住んではって、神戸へは出て来やはれへんねん。当人は四十一歳で初婚や云やはるし、―――」
「何で四十一まで結婚しやはれへなんだやろ」
「器量好みでおくれた、云うてはるねん」
「それ、あやしいなあ、よう調べてみんことには」
「先方はえらい乗り気やねん」》

 縁談が自力のマッチングアプリにまで極まった今日、「見合い」は体裁よく飾られた中で、互いに考量のうえ選択が可能な、定めし実利と礼にかなった制度だったのだろう。以前の米人留学生たちは、「日本には見合いがあって羨ましい」と言っていた。当時はホテルのロビーや高級喫茶店(長時間いても追い出されない店)で、見合いの待ち合わせらしき一団をしばしば目にしたものである。
 そう、留学生といえば、先回の続きがあった。
 かつて中西部の大学で、女学生が「It's boring.(退屈です)」と言ったので、私は「それは良かった。君はこの小説を通して日常の感触を十分に味わったのだろう」などと返したのだが、他日、別の学生はこう言ったのだ。「私はハワイ生まれの日系三世です。お祖母ちゃんが関西出身なので、『細雪』を読んでいるとまるでお祖母ちゃんの話を聞いているような気がして、引き込まれます」。
 なるほど、人それぞれだな、と、実は前者同様日常に退屈していた私は思ったものだ。それから早三十五年、阪神淡路大震災地下鉄サリン事件、米同時多発テロ東日本大震災等々の災厄を経て「令和6年能登半島地震」に直面した今、日常の持続をこそ、と思うのである。

#谷崎潤一郎 #細雪 #見合い #日常

【『細雪』を読む(1) ── The Makioka Sisters】

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    さて次は、谷崎潤一郎の『細雪』を読んでみよう。
    『細雪』は、『雪国』とほぼ同時期の昭和11年から16年頃の日本の中上流の家族を描いている。昭和18年からの雑誌掲載は軍部の圧力で中止となるが、発表のあてなく書き継がれて戦後に刊行、評判となった小説である。
恐慌や凶作に襲われクーデター未遂まで起きた時代に、『雪国』の島村も『細雪』の蒔岡姉妹も都会人として恵まれた生活を送っていると見える。中野重治は、あの苦しい時代を生きた者として『細雪』はとても読めないのだと言っていたが、戦後生まれの私のような世人にとっても、彼らの生活程度は高度成長期を経てやっとどうやら少しは身近になってきたかといえる類だろう(女中を置く等ほど遠いが)。しかも、我々は言論統制などまるで知らないのだ。谷崎も川端も、そして中野重治も一体どんな時代を生きたのか、実感としては分かり難いのである。それではまた、今は一体どんな時代なのか。それさえも不知道ではないか。
もっとも、現実離れをした『雪国』は別として、『細雪』の中にはむしろ時代の感触が所々に書き込まれており、軍需会社の仕事で貞之助の懐が潤ったり、関西のぼんぼんが満州皇帝の側近に応募するなどという話まで出てくるのである。
 『細雪』は、大阪船場の古い商家蒔岡家の四人姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子の話である(英訳題上記)。長女の鶴子は名古屋出身の銀行員・辰雄を婿に貰い上本町(うえほんまち)の本家を継いだが、堅実一方の辰雄は先代の死後傾きだした商売に見切りをつけて暖簾を人に譲ってしまい、妹達はそれをとても残念に思っている。
 次女の幸子は会計士の貞之助(明記はないが東京者とおぼしい)を、これも婿として分家し、阪神間(大阪と神戸の間の新興地)の芦屋に住んでいる。一人娘と女中たち、それに本家の兄と折り合いが悪く分家に入り浸りの妹たちと暮らしている。
 話の中心は二つ。その一つは、三女雪子の縁談である。純日本風の雪子は三十を過ぎた今まで見合いを繰り返したが縁が無かった。周囲は気にしているが、本人は何を考えているのやらはっきりしたことを言わず、分家で姪の世話をしながら暮らしている。
もう一つは、四女の妙子の恋愛である。妙子は、雪子とは違い活動的で現代的とされ、洋裁で自活しようと仕事場にアパートまで借り、男と事件を起こしたりする。この二人の妹の見合いと恋愛が、次女の幸子と貞之助の夫婦によって気遣われ、また処理されていくのである。作品の中で雪子のお見合いは5回あり、どれも具体的な様子や心理がよく分かり興味深く読める……などと、月並みな読書案内になってしまったが、さて。
米欧の学生達にはサイデンステッカーの訳で読んでもらったが、「イッツ ボアリング(退屈です)」と一人の女子学生が言ったのが忘れられない。単刀直入、まさにである。で、私は何と答えたか──それは、また次回。

#谷崎潤一郎 #細雪 #昭和 #関西

『道草』を読む(9)──語りがたいもの

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 むろん、養子縁組を解消して手切れ金まで得た島田が、元親子の情を持ち出して健三に復縁や金銭を求めるのは欲深過ぎることで、それを追い払うのは当然であり、道義的には決して〈捨てる〉ことにはならないだろう。しかし、たとえ過度な金銭的要求を排するためとはいえ、人間的関係を絶つというのは、やはり拒むことになるのである。すなわち、健三はふたたび〈父〉を捨てざるをえない場に至ったといえるのだ。
 島田は〈父〉であったのだと考えてみれば、島田との再会が健三を深く揺り動かしたのも、もっとものことと思えてくるだろう。何より彼は幼時、この〈父〉の子であったのであり、そして今また、突如現れた「その人」によって否応なしに、あらためて〈子〉として凝視されたのである。
 島田にとっては、こうした接近と金の無心は他にすべもない道であり、あるいはそれもまた〈父と子〉のつながりの確認であったのだというべきなのかもしれない。島田の「異様の瞳」は、健三自身の信ずる「異様の熱塊」とその切実さにおいて、まさに見合っているのである。
 関荘一朗「『道草』のモデルと語る記」(『新日本』1917.02)や、鷹見安二郎「漱石の養父―塩原昌之助―」・「「道草」の世界」(『世界』1963.10, 12)によれば、養父塩原昌之助の金之助に対する執着は並大抵のものではなかったと思われる。塩原の〈父と子〉のこだわりの深さと関係のもつれは、人間漱石を考える上で見落とせないものの一つである。鷹見の「昌之助は人間漱石に最も深刻な影響を与えた人物といって過言ではない」との指摘は重いのだ。

 双方のこだわりの根はいかにも深い。そして、健三にとって島田へのこだわりは、〈自分はどこから来たのか〉という根源的な問いと深くかかわっているのだ。だからこそ、傍観者としての細君には見えすいた無心の始まりとしか見えない島田の出現が、健三自身には「一体何のために来たのだろう」(十七)という一見迂闊にも聞こえる疑問の開始となっているのである。健三によって選び取られようとした「正しい方法」も、そうしたこだわりにかかわるものであったとすれば、その語りがたさのほどが理解できてくるのだ。
 しかし、こうした健三による島田の〈父〉としての受け止めは、「正しい方法」と同じく、語りがたい根源的なものとして、作中ではもどかしいほど奥に置かれているのである。それは、いわば『道草』の隠された重心ともいえるだろう。
 健三の〈迂闊さ〉は作品世界の中にあって、それら〈語りがたいもの〉をそのまま静かに覆い、また同時に、とまどいや驚きによってそれらを支えてもいるのだ。
 健三は細君の前で煮えきらぬ説明を繰り返し、細君の無理解と〈語り手〉による批判にもさらされ続ける他はない。それは、人の心が分からぬという思いに悩まされつつ、自身の心をもつかみかねて、過去へと目をやる者のすがたをしているのである。
 作中、「黙って姉のぱさ/\した手の平を見詰め」る健三(四)や、島田の来訪を受けて「黙って」座り続け、ときおり庭に目をやる健三(十七)、あるいはまた、うたた寝する細君の寝顔を「不安」とともに「見詰めて」「黙って立ってい」る健三(三十)など〈黙る健三〉のすがたは、なんとも印象的である。
 小説世界をつかさどる〈語り手〉の饒舌の中で、それらは頼りない一瞬の像に過ぎないものである。だが、まさにそれゆえにこそ、生きている個の感触、味わいを伝えるものと見えてくるのだ。
 「御前は必竟(ひっきょう)何をしに世の中に生まれて来たのだ」(九十七)という自問は、まさにこうした健三のただ中にあらわれるのである。それは先の、島田は「一体何のために来たのだろう」という〈迂闊な問い〉と同じ深みからやって来た声なのだ。

 描かれた動作や記された会話、あるいは心中の声などの個々の魅力が、小説世界の味わいを深めている。それはすでに述べたように、読者に〈語り手〉の統御の及ばぬひろがりと奥行きがこの世界にはあるのでは、という印象をも与えるのである。
 突如あらわれた〈父〉におびやかされた主人公は、こうした作品世界のひろがりの中で、ときに〈迂闊な健三〉や〈黙る健三〉として照らし出される。それらがさらに〈語り手〉の姿勢の強さと反響し合うことによって、『道草』に独特の深みと味わいをもたらしているのだ。それは現実感と滑稽味をともなった、過去から現在へと至る喪失と持続の感受の物語なのである。
 健三は結局なにがしかの金を払って〈父〉を拒むのだ。彼は迂闊さの中でいったいどのようにそれを選び取ったのか。我々はあらためて、記された言葉をとおして健三の心中に目を向けるだろう。それはまた、〈語り手〉の向こうにいる者の方へと、あらためて目を向けることとなるのである。

 末尾で、ふたたび子を産んだ妻を前に、さらなる父となった健三がつぶやく言葉は、人の世のただ中にあって生を持続する感触を、いかにもわかりやすい平明なものとして伝えている。

 「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起った事は何時までも続くのさ。ただ色々な形に変るから他(ひと)にも自分にも解らなくなるだけの事さ」百二

(了)

#漱石 #道草 #健三 #島田 #父

『道草』を読む(8)──島田とは何か

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 健三の裡に過去が蘇ってくる。幼い頃、健三は養父母である島田夫婦とともにあったのだ。

《然し夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
 彼等が長火鉢の前で差向いに坐り合う夜寒の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父(おと)ッさんは誰だい」
 健三は島田の方を向いて彼を指さしした。
「じゃ御前の御母(おっか)さんは」
 健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
 これで自分達の要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊いた。
「じゃ御前の本当の御父ッさんと御母さんは」
 健三は厭々ながら同じ答えを繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故だか彼等を喜こばした。彼等は顔を見合せて笑った。》四十一

 これが島田夫婦の養父母としてのありかたを端的にあらわした場面である。どうだろうか。
 ここに描かれた養父母は何とも愚かに見えるだろう。「父母」をたずねて繰り返される彼等の問いは、そのもくろみとは裏腹に幼い健三の心に突き刺さっているのである。
 この部分の感想を何人かの若者に聞いてみると、まずはその養父母としての愚かさ、執拗な問いの逆効果が指摘される。中には、それはやはり彼等が「養父母」であるからであって、「実父母」ならばしないことだろうといった反応も聞かれる。さらには、どこか厭らしさがある、こんなひどいことをするのはやはり「血のつながり」のないせいではないか、といった根強い偏見を含んだ決めつけが続く場合もあるのだ。
 また時には、これはむしろ普通の養父母ならば慎重にかまえて口には出さぬ問いではないか、それを繰り返すこの二人はどこか“変な養父母”ではないのか、といった意見も出てくる。
 しかし、そのまた後で、たしかにそういわれてみれば、実父母ならばむしろこうした問いを無造作にすることもできるのではないか、といった受けとめもあって、問題はふたたびもとにもどるのである。
 こうした議論の中であらためて見えてくるのは、養父母としての島田夫婦が作品上で〈否定的に印象づけられている〉という事実である。『道草』の読者にとって、健三とともに島田を疎んじ、厭うべき者と受け止めるのはいともたやすいことなのだ。
 しかし、ここで見方をかえれば、作中から浮かび上がって来るのは、何より島田と御常の親たらんとする願望の強さであるといえるだろう。特に母たらんとする御常の執着は激しい。彼女の問いは執拗さそのものとして幼い健三を脅かし続ける。それはいわば〈生まずの母〉の執念と不安を響かせているのである。
 その思惑はどうであれ、彼等はまさに〈父母になろうとした者〉たちなのである。しかし、幼い健三はそれを知らない。健三にとって彼等はまさに〈父母〉であったからである。父と母の「不安」はそのまま子の心を標的とする。そこには愚かさがあり、皮肉があり、悲劇があるといってよいだろう。まさに、養父母は「自然」のために「彼等の不純を罰せられ」(四十一)、健三の「気質も損はれ」(四十二)たのである(12)。
 ふたたびここで、これらが回想する健三自身の場に立った〈語り手〉による表現であることを確認しておこう。
 かつての「養父母」に大きな非を見、そこに「養子」としての自身の幼年期の問題の中心を見るのは他でもない現在の健三自身であり、その傾きが〈語り手〉によって伝えられているのである。そうした回想の中では、引用の傍点部のような〈父母〉としての彼等の「喜び」や「笑い」は不可解なものとしてすでに干からび、「不安」のみがきわだっているのだ。
 しかしまた、一方で作中には次のような回想もあらわれて来るのである。

C《健三は昔その人に手を引かれて歩いた。その人は健三のために小さい洋服を拵(こし)らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦(ボタン)が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。〔略〕しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。〔略〕
 その人は又彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵、錦絵、二枚つゞきの絵も彼の云うがまゝに買ってくれた。彼は自分の身体にあう緋縅(ひおど)しの鎧と龍頭の兜さえ持っていた。彼は日に一度位づゝその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。》十五

 幼年期の満たされた思い出の断片がここにはある。それは、健三の裡に「不図」、「続々湧いて来る」(十五)記憶であり、そのどれもがみな「その人」すなわち島田と切り離せずにあることに彼は「苦し」(同前)むのである。

《凡てそれらの記憶は、断片的な割に鮮明(あざやか)に彼の心に映るもの許(ばか)りであった。そうして断片的ではあるが、どれもこれも決してその人と引き離す事は出来なかった。零砕(れいさい)の事実を手繰り寄せれば寄せる程、種(たね)が無尽蔵にあるように見えた時、又その無尽蔵にある種(たね)の各自(おの/\)のうちには必ず帽子を被らない男の姿が織り込まれているという事を発見した時、彼は苦しんだ。
「こんな光景をよく覚えている癖に、何故自分の有(も)っていた其頃の心が思い出せないのだろう」
 これが健三にとって大きな疑問になった。》同前

 ここにもまた〈迂闊な健三〉がいるのだ。それは、もはや他者理解の遅延にとどまらず自己認識の遅延であり、自己把握のずれに悩む者のすがたである。

《実際彼は幼少の時分これ程世話になった人に対する当時のわが心持というものをまるで忘れてしまった。
「しかしそんな事を忘れる筈がないんだから、ことによると始めからその人に対してだけは、恩義相応の情合が欠けていたのかも知れない」
 健三はこうも考えた。のみならず多分この方だろうと自分を解釈した。》同前

 これはいったいどういう自己把握だろうか。
 それは過去の「恩義相応の情合」そのものの欠如を語るのではなく、「その人」に対する「心持」の記憶の欠如を語っているのだ。
 あたかも彼の「何時も抜けな」い玩具の「脇差し」(十五)のように、現在の健三の前に幼年期の自身の心はかたく閉ざされているのである。我々読者は、それはその後につづく「その人」との離別と面倒な金銭がらみの長い経験にまつわる、苦い記憶の重量によるものなのだろう、と受け止めることができるのだ。
 健三には何かが見えなくなっている。しかもそのことを彼自身が感じている。それがここでの健三の〈迂闊さ〉のありようである。
 「多分この方だろうと自分を解釈した」という言葉のぎごちなさは、いかにもそうした自己把握の不如意の感じをあらわしている。同時に、その反面に、ひょっとして自身の過去は「この方」ではないかもしれない、すなわち「恩義相応の情愛が欠けていた」のではないのかもしれない、という不安をものぞかせているのだ。
 しからば島田とは健三にとって何であったのか。「幼時の記憶」の「無尽蔵にある種(ため)の各自(おの/\)のうちに」織り込まれた「その人」とはいったい何者か。
 すでに何度もふれたように、再会した島田に対する呼称は丁寧な「その人」とややぞんざいな「この男」との間を揺れ動いている。そこには、何やらぴったりとした呼び方があったはずなのに出てこない、今の自分にはうまく呼ぶことができない、といったもどかしさが感じられる。
 では、「その人」は本来何と呼ばれるはずだったのか。かつて、健三は島田を何と呼んでいたのか。もちろん、それは「御父ッさん」以外ではない。
 島田は健三にとって、他ならぬ父だったのである。
 そしてまた御常は、その時何より母であったはずである。引用部Cの「その人」を「父」と置き換えてみればどうか。幼い健三の日々において島田がまさに父親であったことが感じられるだろう。

C’《健三は昔父に手を引かれて歩いた。父は健三のために小さい洋服を拵(こし)らえてくれた。大人さえあまり外国の服装に親しみのない古い時分の事なので、裁縫師は子供の着るスタイルなどにはまるで頓着しなかった。彼の上着には腰のあたりに釦(ボタン)が二つ並んでいて、胸は開いたままであった。〔略〕しかし当時の彼はそれを着て得意に手を引かれて歩いた。〔略〕
 父は又彼のために尾の長い金魚をいくつも買ってくれた。武者絵、錦絵、二枚つゞきの絵も彼の云うがまゝに買ってくれた。彼は自分の身体にあう緋縅(ひおど)しの鎧と龍頭の兜さえ持っていた。彼は日に一度位づゝその具足を身に着けて、金紙で拵えた采配を振り舞わした。》十五

 ここに描かれたのは、失われた「御父ッさん」と「御母さん」の記憶にまつわる物語なのだ。しかも、それは記憶の上だけでなく生活の実際の上でも失われたのである。
 さらにいいかえれば、彼等は〈捨てられた父〉であり〈捨てられた母〉でもあった。そしてそこには〈捨てられた子〉が残された。「健三は海にも住めなかった。山にも居られなかった」(九十一)のである。
 ここには家庭の悲劇の断片があるのだ。
 御常は、島田との不和、離別を経て〈捨てられた妻〉となり、さらに必死で自己の側に置こうとした〈子〉にも離反される〈母〉としてあらわれてくる。何ともあわれであり、また滑稽なすがたである。健三のその間の印象を語る「間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった」(四十四)「彼女〔御常〕は又突然健三の眼から消えて失くなった」(同前)という表現の身もふたもなさは、両親の破婚のさなかにあって翻弄される子の心象を通したすぐれた描出であるといえるだろう。
 しからば彼等を捨てた者は誰か、それは島田であり、御常であり、また健三の実父である。いわば彼等は互いを捨て合ったのだともいえるだろう。
 しかし〈捨てられた〉健三自身もまた、彼らを〈捨てた〉のだといえるかもしれない。実家にもどったのち、実父の態度の急変が健三の実父に対する情愛を「根こぎにして枯らしつくした」(九十一)後で、島田の要求におびえ、「給仕になんぞされては大変だ」と「何遍も同じ言葉を繰り返し」(同前)ながら己れの道を求めた健三は、必死で島田とのつながりを切り捨てたのである。
 それは彼等によってまるで「物品」(同前)のように扱われた健三にとって無理からぬことであり、作中では何ら批判の対象とはされていないのだが、いつかその記憶の中の〈父〉の像は干からびかたく閉ざされてしまうのである。吉本隆明が、島田を「無形の罪障感」の「具体的なすがた」(『言語にとって美とはなにか』)として捉えているのは注目すべき指摘である。
 「どうかこうか給仕にならずに済んだ」(同前)と自らを振り返る健三の裡に、すぐ続けて「しかし今の自分はどうして出来上ったのだろう」(同前)という、茫漠とした問いが浮かんで来ていることを見逃してはならない。そこには、健三が「今の自分」を手に入れるために失った世界の重さが記憶の欠落のかたちで響いているのだ。
 そして今、健三はふたたび〈父〉を捨てざるをえなくなるのである。

#漱石 #道草 #健三 #島田 #父

『道草』を読む(7)──「迂闊な健三」

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 生のただ中における認識とはいわば決断なのである。特に人事にかかわる判断は、様々な可能性の中から掴み取られ、直ちに行動へとつながる動きともなるのだ。
〈語り手〉の高飛車はそれとして、一方、主人公健三の認識はどうなのか。

《心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野(あらの)の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。》三

《彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。》三

 かく語られてきたように、いかにも偏屈な健三は、論理で現実を割り切ろうとする「執拗(しつおう)」(六十五)な男と見えるのである。しかしまた同時に、健三は「迂闊な彼」(五十七、五十八、五十九)としても語られていることを見落としてはならない。
 健三は「世事に疎い」(七十四)、経済的感覚にも欠けた人間なのだとされる。「頭と活字との交渉」に生きる健三は世間を知らず、家計を理解せず(二十)、細君と子らのつながりを知らず、「はなはだ実用に遠い生れ付」(九十二)である自分を「如何にも気の利かない鈍物」(同前)と見る周囲に反撥するが、「役に立つ」(同前)父や兄を持つ細君からも軽んじられ、細君との口論においても「空っぽう」(九十八)の理屈をふりまわすものとして批判をあびるのである。これらの健三のすがたは、御夏(姉)の愚かさや比田(姉の夫)の利己的言動、御住の「朝寝」などと同じく、苦い滑稽さをともなった要素として作中を彩っている。
 しかし、健三の〈迂闊さ〉は、さらに島田との交渉において、たんなる滑稽味をこえたものとしてくっきりとあらわれて来ることに注意しなければならない。
島田の来訪を受けた後、健三は「一体何の為に来たのだろう。これじゃ他(ひと)を厭がらせに来るのと同じ事だ。あれで向(むこう)は面白いのだろうか」(十七)と考え込む。また、「しかし金は始めから断っちまったんだから、構わないさ」と言うが、細君から「だってこれから先何を云い出さないとも限らないわ」と指摘されて急に「不安」を感じる(十九)のである。
 細君にははじめから、島田との交渉の再開が結局は金の無心に至るだろうとのもっともな危惧があり、それは読者にも容易に伝わるのであるが、あたかも健三にはこうした平凡な世間智や人間理解が欠けているように見えるのだ。
 健三は島田との交際を「厭で厭で堪らない」(十四)と意識しつつも断ることができない。そして、それを「正しい方法」(十一)「正しい方」(十三)といった言葉でとらえようとするのだが、その「腹の中」は「まるで細君の胸に映ら」(十四)ず、読者にもまた伝わりがたいのである。
 なかでも、島田から復籍を請われたと聞いた時の健三の反応は、きわだって見えるだろう。

《「少し変ですねえ」
 健三にはどう考えても変としか思われなかった。
「変だよ」
 兄も同じ意見を言葉にあらわした。
「どうせ変にや違ない、何しろ六十以上になって、少しやきが廻ってるからね」
「欲でやきが廻りやしないか」
比田も兄も可笑しそうに笑ったが、健三は独りその仲間へ入る事が出来なかった。彼は何時迄も変だと思う気分に制せられていた。彼の頭から判断すると、そんな事は到底ありよう筈がなかった。彼は最初に吉田が来た時の談話を思い出した。次に吉田と島田が一所に来た時の光景を思い出した。最後に彼の留守に旅先から帰ったと云って、島田が独りで訪ねて来た時の言葉を思い出した。然しどこをどう思い出しても、そこからそんな結果が生まれて来ようとは考えられなかった。
「どうしても変ですね」
 彼は自分の為に同じ言葉をもう一度繰り返して見た。》二十七

 ここに強くあらわれているのは、島田の非常識というよりもむしろ健三の非常識である。それは、健三の〈迂闊さ〉すなわち人間理解につきまとう遅延をあらわすものであり、同時にまた、島田との関係における健三の強い〈こだわり〉のかたちを示しているのだ。
 「正しい方法」という思いと同様、それは他に対しては容易に説明しがたいものであり、「不合理な事の嫌(きらい)な」(七十九)はずの健三にも、どうやら「論理」(十)による把握の及ばぬもののように見えるのである。
 健三のめざす「正しい方法」あるいは「正しい方」については、従来、過剰なまでに精神的な価値づけや思想的な意味づけがあたえられて来た。いわゆる漱石神話や文豪漱石イメージの充填である。しかし、ここで試みたいのは、そうした解釈の欲求の高まりを、もう一度作品のただ中にもどすことである。
 我々はまず何より、それらの語、「正しい方法」あるいは「正しい方」が作中で、健三によってもさらには〈語り手〉によっても十分な意味づけを与えられていない、ということにあらためて気づかねばならないのだ。
いわば、「正しい方法」とは何とも言いようのない思いとして置かれているのであり、その「正しさ」は、ひたすら〈語りがたいもの〉としてあらわれているのだ。そこに高尚な作者の思索のあとを求める前に、読者として我々になすべきことは何か。
 まず見るべきは、そうした思念が健三の中でどのようにあらわれたのかということである。それは他でもない、何より島田によってもたらされたものなのだ。
 冒頭の島田との再会は、すでに述べたとおり白眉というべき場面であるが、そこで強烈に印象づけられるのは島田の唐突な出現であり、いわば、その強い「眼付」(一)や「異様の瞳」(十三)なのである。それは何より健三自身の受けた衝撃を示し、健三にとって島田という存在の重さや深刻さを語っているのだ。それは、冒頭の〈語り手〉による健三批判に続く部分なのである。
 まさに、『道草』は〈島田という驚き〉から始まる世界なのだ。「その人」「この男」とめまぐるしく変化する島田の呼称も、たんなる言い換えの次元をこえて健三の島田に対する感受の振幅の大きさを語っていると見えるのである。
 ではいったい、健三にとって島田とは何であったのか。島田は、なぜ、かくも強い驚きとともに見いだされねばならなかったのだろうか。

#漱石 #道草 #健三 #迂闊 #島田

『道草』を読む(6) ──切実と滑稽、熱気と静けさ

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    ここで考えているのは、AとBの間の矛盾の解釈である。

A《けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野(あらの)の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。》三

B《「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
彼の意味はついに青年に通じなかった。》二十九

さらに、もう一つの解釈があるだろう。
それは、これをレトリック上の問題として考える立場である。
すなわち、Aの「決して思わなかった」というのは額面通りの全否定ではなく、「人間の血を枯らしに行」こうとしている健三への強い批判をこめた表現であり、その非を指弾するために用いられた修辞に過ぎないのだ、とする解釈である。これは、やや安直な説明に堕する危険があるだろうが、『道草』の〈語り手〉をつねに冷静な絶対的存在と見ることからは離れる、という点で意味のある見方といえるかもしれない。
 しかし、ここであらためて確認するべきは、何よりその表現としての強さなのである。「自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。」(三)とたたみかけるように語られた健三の「孤独」は、その「異様の熱塊」の「自信」とともに「索寞たる曠野の方角」へ「人間の血を枯らしに行く」ものとして難詰され、突き放される。ここに私は、何やら〈強すぎるもの〉を感じるのである。
 このような検討はあまりに細部にこだわりすぎているだろうか。あるいはそうかもしれない。しかし、私自身の『道草』の読みとりにおいては、AとBの齟齬はたんなる本文の論理的不備としてではなく、〈語り手〉のあり方にあらためて目を向けさせる手がかりとなったのである。
いわば、こうした裂け目から、一瞬〈語り手〉の顔つきが見えるような気がしたのだ。さらに他にも作中の諸所に、断言や決めつけの語勢を感じさせる個所がある。それは次のような部分である。

《彼は論理の権威で自己を佯(いつわ)っている事にはまるで気が付かなかった。》十

《彼は独断家であった。これ以上細君に説明する必要は始めからないものと信じていた。》十四

《しかしその痛切な頼みを決して口へ出して云おうとはしなかった。感傷的な気分に支配され易い癖に、彼は決して外表的になれない男であった。》五十

《彼の道徳はいつでも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。》五十七

《「何と云ったって女には技巧があるんだから仕方がない」/彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡ての技巧から解放された自由の人であるかのように。》八十三

 以上は健三に関するものであるが、断定的表現は健三以外の人物についても見出される。

《すると彼の癇癪が細君の耳に空威張をする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷」の四字に訂正するに過ぎなかった。》三

《姉は自分の多弁が相手の口を塞いでいるのだという明白な事実には亳(ごう)も気が付いていなかつた。》六

《そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技倆も自分〔細君・御住〕に充分具えていないという事実には全く無頓着であった。》十四

 これらは、もちろん各々の文脈の中で異なるニュアンスを持つのだが、並べてみると共通して〈語り手〉の高飛車な姿勢が感じられるだろう。
もう一例を見てみよう。

《「詰まりしぶといのだ」
 健三の胸にはこんな言葉が細君の凡ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼は外の事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶといという観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを真闇(まっくら)にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君は又魚か蛇のように黙っその憎悪を受取った。》五十四

 〈語り手〉によって述べられたこうした健三や御住の強烈な描出に出会うとき、私にはこの〈語り手〉がつねに公正な観察者などではなく、むしろしばしば熱っぽい傾きをもって語る者と見えてくるのである。それは時には誇張をも辞さぬ叙述者であり、厳しい批判者であると同時に、また一面では深い同情をものぞかせる者のように感じられる。その語りはしばしば切実な調子をおびるが、またその反動として滑稽味をも感じさせる。そしてその断言の強いめりはりは、あたかも個人的な心情をともなうかのように耳に響き、読者をひきつける力をもっているのだ。
 ここでもっともわかりやすい解釈は、〈語り手〉を過去の自分を見る後日の健三として考えることである。過去の己れの執着や狭量な考えを振り返り、そのいちいちを語る〈語り手〉が慙愧の念のこもった強い口調をもつことは、ごく自然なことと考えられるからである。これが漱石その人の自叙伝的作品であるという外的条件も、この解釈を理解しやすいものとしている。
 だが、作品内世界をそのものとして見すえようとすれば、〈語り手〉を安易に後日の主人公として片付けることはできないのである。もちろん、それは明白である。しかしまた同時に、そこでは、誰ともわからぬ〈語り手〉がひょっとして自分のことを他人事として書いているのではないか、といった感じを受けとることは読者の自由というべきなのだ。
実は自分自身を問題としていながら、あえてそれを、己れを離れた者として描き、対象化しようと努める意志的な姿勢や、その切実にして滑稽でさえもある語りの感触といったものをそこに感じることは、かならずしも『道草』の世界の解釈をせばめはしないのである。
 さらに、私の場合は、くりかえし読む中で、そうした断言の快い調子や裁断的な姿勢の強さにひかれつつも、しばしば、はたしてそんなにはっきりと断定できるものだろうかという疑念が生じ、あるいは指弾された人物にむしろ同情を誘われるということが起こった。それは〈語り手〉の言葉の強さによってこそ逆方向に唆されたものであり、語りの言表の〈背後〉にある広がりや奥行きの感触となったのだ。すなわち、それらは小説の語りによってもたらされ、読みの味わいとして感受されたものなのである。
 私はこうした〈語り手〉のあり方に、はるか高みに立った視線ではなく、むしろ日々を生活する者の目の動き、その偏りや深まりといったものを読みとりたいと思うのだ。それは、つねに透徹した視線ではなく、何とか他者を理解しようとしながらも決して全き公正さや全知にはたどり着けないながらも、われわれ自身も持ちうるような目の深まりであり、人間理解である。
 『道草』の〈語り手〉はあたかも自身を語るかのように健三の傍らに寄りそい、同時にまた厳しい批判の言によってそれを突き放すかに見える。しかしまた、ときおり己をもふくめた周囲に憐憫の目を向ける健三の傍らで、ともに立ちどまる者と見えるのである。
その目は決してかわききってはいない。見すえられた健三自身や御住、姉や兄や比田、さらには島田や御常までもがいきいきと動いて見えるゆえんである。それは、むしろ人間的な情動をおびた語りというべきだろう。私は時に頼りなささえ感じるこの〈語り手〉に、一個の人間としての魅力を感じたのである。
 こうした〈語り手〉像の受けとめは、ともすれば『道草』の世界をいささか感傷的に見せるおそれがあるかもしれない。しかし、『道草』をはるかな高みから統御された世界と見ることをやめることによって、そこにあらためて、切実さと同時に滑稽さを、暗さとともに明るさを、さらには熱気と静けさとの交錯を読みとることができるのではないか、と考えるのである。それは他でもない、こうした〈語り手〉と作中人物各々との間の接近や懸隔の感触から来ているのだ。
 そしてむろん、ここで考えてみたいのは、このような〈語り手〉によって描かれた健三のすがたなのである。

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