hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(10)──謝肉の火曜日、独身者、アシル氏

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思想家サルトルはもはや過去の人となった。その哲学はレヴィ・ストロースの批判以来構造主義以前のものとして片づけられ、性急な政治的姿勢も拠り所を失い、すっかり影をひそめてしまったかのように見える(レヴィ・ストロースの批判がはたして的を射ていたか否かは別であるが)。
しかし、だからこそ今私は、過去に読んだ『嘔吐』を前に、さらに読む自由を感じているのだ。かつて世に響いたサルトルの発言は、批評としての強烈な牽引力と危機感とをもって迫ってきたものだが、もはやそんな勢いに追い立てられることなく、われわれはその小説世界に入ることができるのである。
『嘔吐』を読む私が興味を持つのは、「私」=ロカンタンがどのように人間を、街を、物を、そして自分を意識し、考えるか、ということである。あらためてこの世界の片隅に佇む若い知性の孤立を理解し、自分が抱くのは共感か違和感かを確かめながら味わいたいと思っているのだ。

次は「謝肉の火曜日」マルディグラ、すなわち謝肉祭の最終日である。
「私」は、曖昧なお祭り気分の漂う街に出て行き、食堂に入る。久し振りに届いたアニーからの手紙を持っているが、もはや心浮き立つというわけではない。彼女によばれ、パリで会うことになるだろうと思いつつ、席に着いて、かつての逢瀬を振り返りもするのだ。
そこへ、一人の小柄な男が入って来る。祭日の昼、孤独な男は何とか自分も居所を得ようとして、不愛想なウェイトレスとのやり取りを試みるのだ。

《例の男はいつまでも私を見つめている。それにはうんざりする。彼は小柄なくせに勿体ぶって背伸びをしているのだ。ウェイトレスはようやく彼の注文したものを運ぶ気になったらしい。大儀そうに黒い袖の太い腕を持ち上げ、瓶をつかむと、コップとそれを運んで行く。
「はい、お客さま」
「アシルというんだがね」と彼は気取った調子で言う。
ウェイトレスは答えずにコップに注ぐ。すると男は素早く鼻から指を離して、両の手のひらを平らにテーブルの上におく。頭を後ろにのけ反らせると、その目がきらりと光る。そして彼は冷ややかな声で言う。
「哀れな娘だ」
ウェイトレスはぎょっとする。私もぎょっとする。男は何とも形容できない表情を浮かべる。おそらく自分でも驚いたのだ、まるで誰か別の者がしゃべったかのかのように。私たちは三人とも気詰まりを感じている。》

いかにも芝居がかっているが、どこかで見たことがあるような光景でもある。われわれも少し酒でも入れば、これくらいの台詞は吐きたくなるだろう。
謝肉祭のさなか、独り者の男たちが食堂に居合わせる。一人が、自分を無視した店員に、つい気取った言葉で応酬する。「哀れな娘だ」──なるほど然り、である。
しかし、仕事にうんざりした娘も、隣席でうんざしている「私」も、ともに「ぎょっとする」のだ。張本人の男自身まで、「自分でも驚いた」かのように、何とも格好のつかない表情を浮かべたという。面白い。まるで芸人のコントのような、ぎくしゃくした滑稽味がある。
たんに街ですれちがったのではなく、ある場所に居合わせた他人同士の間で、関係の不調和が気づまりな空気に変じる。人間の関係性が空気にたとえられるのは日本に限ったものでもない。
が、さすがはフランス、女はすぐに、当然のように反撥するのだ。

《最初に気を取り直したのは肥ったウェイトレスである。彼女は想像力に乏しいのだ。見下すように、アシル氏をじろじろと眺める。彼を席からつまみ出して外へ放り出すくらいのことなら、片手ですむことをよく知っているのだ。
「いったいなんでまた、あたしが哀れな娘なんですか?」
相手はためらう。狼狽して彼女を見つめ、それから笑い出す。顔にはくしゃくしゃに皺がよる。彼は手先を軽くぶらぶらさせる。
「癇にさわったかな。そんなふうに言うんだよ。ほら、哀れな娘だ、ってね。べつに悪気があるわけじゃないのさ」
しかし彼女はくるりと背中を向けて、カウンターの向こうに行ってしまう。本気で腹を立てているのだ。彼はまだ笑っている。
「はっ! はっ! つい口が滑っただけさ。怒ったのかい? 怒っちまった」と彼は、何となく私に話しかけるように言う。》

脚本教室で習う会話見本とでも言うべきか。その出来不出来は別として、ある小さな「冒険」(はじめとおわりのある人間の物語的生)の試みの及ぼした波紋のぎごちなさを、目に見えるものとしてト書きと会話のような調子で描いているのだ。

《私は顔をそらす。彼はコップを少し持ち上げるが、飲もうとはしない。びっくりして怯えたように目をぱちぱちさせている。まるで何かを思い出そうとしているみたいだ。ウェイトレスはレジの椅子に座った。そして縫い物を取り上げる。すべてはもとの静けさに戻った。しかしそれはもはや同じ静けさではない。ほら、雨だ。雨は軽く曇りガラスの窓を叩く。もしもまだ仮装した子供たちが街にいたら、彼らのボール紙のお面は雨でふやけて汚れるだろう。
ウェイトレスが電気を点ける。まだ二時になったばかりだが、空は真っ暗で、縫い物の手先がよく見えないのだ。穏やかな光。人びとは家にいる。彼らもおそらく電気を点けたことだろう。彼らは本を読んだり、窓から空を見上げたりしている。この人たちにとって……それは別なことだ。彼らは違うやり方で歳をとった。遺産や贈り物に囲まれて暮らしており、家具の一つひとつが思い出である。置き時計、メダル、肖像画、貝殻、ペーパーウエイト、屏風、肩掛け。戸棚には、瓶や、布や、古着や、新聞などが、ぎっしり詰まっている。彼らは何もかも保存している。過去、それは所有者の贅沢だ。》

なるほど、これもよく分かる。
謝肉祭の休日の昼間、空は曇り、人がみな屋内に引っ込んでいる中で、独身者が家族持ちの団欒を想像しているのだ。「私」は、ウェイトレスの存在を目にしながら、家具や置時計、メダル、それに瓶や古着までもがぎっしりと詰った家族持ちの「過去」を思い描いているのである。

《いったいどこに私は過去をとっておくことができようか? 過去はポケットに入らない。過去を仕舞っておくためには一軒の家を持つ必要がある。私が所有しているのは自分の肉体だけだ。まったく独りぼっちの男、ただその肉体しか持っていない男は、思い出を固定することができない。思い出は彼を通り過ぎてしまう。それを嘆くべきではないだろう。私はただ自由であることのみを欲したのだから。》

これも若い大人にこそ似合う感慨だろう。「過去はポケットに入らない」──今は感心しながら懐かしく読めるのだが、かつての私は、こうした独身者の述懐を、型にはまったきざな台詞と感じて反撥したものである。まるでさっきのウェイトレスのように。
もちろん、それは私自身が若かったからだ。しかし、今となってはそんな反撥さえ陳腐と思えてどうでもよくなり、少々バタ臭いが、一人の若者の言としてそのまま耳傾けて、なるほどそうかね、などと思ってしまうのだ。
では、もう一人の登場人物、勿体ぶった小男のアシル氏の方はどうなったのか。

《小男はせわしなく身体を動かして溜息をつく。彼はオーバーのなかで身体を丸くしているが、ときどき身を起こして威張った顔つきをする。彼もまた過去を持っていないのだ。よく探してみれば、もうつきあっていない親戚の家に、誰かの結婚式で撮った彼の写真が見つかるかもしれない。折り襟で、胸当てのついたワイシャツ姿で、青年らしくぴんと口髭を生やした彼の写真だ。私にかんしては、そんなものすら残っていないだろう。》

ロカンタンはアシル氏に関しても想像力を働かせ、共通の認識を分け与えさえするのだ。しかし彼は、アシル氏と自分を決して「共感」でつなごうとはしない。むしろ、反撥を感じるのである。これもまた、まるで想像力の欠如したさっきのウェイトレスのようではないか。
すなわち、かつての私と同様に、「私」も、アシル氏の同類でしかない自分を拒もうとしているのだ。かたくなで惨めなウェイトレスとそっくりに。

《またしても、彼は私を見つめている。今度は話しかけてくるだろう。私は自分の身体がすっかりこわばるのを感じる。私たちのあいだにあるのは共感ではない。私たちは似た者同士である、というだけの話だ。彼は私と同じように独りぼっちだが、私以上に孤独のなかにはまりこんでいる。彼も〈吐き気〉か、それに類したものを待っているにちがいない。つまり今では私のことを見破って、顔をしげしげと見てから、こう考える人たちがいるのだ、「あいつはわれわれの同類だ」と。それで? 彼はどうしようというのだ? 私たちが互いに相手に何もしてやれないことは、向こうもよく知っているに違いない。家族持ちは思い出に囲まれて、それぞれの家にいる。そして私たちはここにいる。記憶を持たない二人の落伍者だ。もしも彼が不意に立ち上がって言葉をかけてきたら、私は驚いて跳び上がるだろう。》

ここが、今日のさわりだ。
ただし、ここで拒まれているのはアシル氏だけではない。十分に小説的な話でありながら、物語としてみずからを紡ぎ出して行くことを拒みつづける、といった身振りが、小説『嘔吐』にはあるのだ。
少々わざとらしくはあるが、それは内省的、あるいは哲学的などと持ち上げるまでもない、われわれの日頃の思いに通じたものだ。すなわちそれらは、われわれが生活の中で、なげやりな立ち見で目にしたちぐはぐな一幕にも似て、数日も経てば忘れてしまうような光景にすぎない、と見えるのだ。
それにしても、この書きぶりは、『異邦人』と比べて、何とこだわりに満ち、べたべたとした“オジン臭い”述懐であることか。そこに多分、ロカンタンの執着も、また空ろな悲しみも潜んでいるのだろう、と今の私は思う。
一方のムルソーの孤独はもっと乾いて、クールである。しかも、そこには別稿で見たように、孤立した女や老人に対する別種の共感さえ置かれてあるのだ。
かつての私が、ムルソーに惹かれ、ロカンタンにはうんざりした理由も、たぶんそこにあったのだろう。だが、実はそれは、自分が決してムルソーのごとき孤立を引き受けることが出来ない、ということを知っていたからに違いないのである。

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