hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(9)──月曜日、冒険の感情、高等遊民

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日曜日の最後に、「私」は「〔冒険の感情は〕来たいときにやって来る。そしてたちまち去って行く。それが去ったとき、なんと私はひからびていることか! その感情は、私が人生に失敗したことを示すために、このように皮肉な短い訪問をするのだろうか?」とぼやいていた。いささか大仰だが、よく分かる嘆きである。
「冒険」とまでは行かずとも、自分が生き生きとした経験の渦中にあるという意識は、ときに生じてやがては消え去るものだ。そして、充実感が失せた後は、抜け殻となった自己意識がより粘着力を増してまとわりつくのである。それでも「私」は、「苦い悔恨」を感じながら、なお意識の高揚を求める。「これ以上に執着しているものは、この世の中にない」とまで言い切るのだ。
日記は、詳細に書けば書くほど、経験と意識との間にズレが生じ、解釈による弥縫もおぼつかなくなり、混迷したもの、あるいは愚かしい繰り返しともなり果てるだろう。『嘔吐』の日記体も混迷や停滞、反復の様相にこそリアリティが滲むのだ。
日記とは、事実の羅列ともなり、また、時々に書こうとしたことの記録ともなりうるものである。ロカンタンも、そこにみずからを見出そうとしているのだ。
少なくとも日曜日には、「冒険」があったはずなのである。それが、月曜日には、こんな調子に変わってしまうのだ。

《どうして昨日は、こんなばかげた大げさな文章が書けたのだろう。〔中略〕結局うんざりするのは、昨夜の私が舞い上がっていたことだ。二十歳のころ、私はよく酔っぱらった。そして、自分がデカルトのような男なのだと釈明した。自分がヒロイズムで膨れあがっているのをはっきり感じたが、そのままにしておいた。それが気に入っていたのだ。その揚げ句に翌日は、反吐だらけのベッドのなかで目が醒めたように嫌な気分になるのだった。》

インテリめいた気負いを除けば、これもよく分かる述懐といえるだろう。
若い時は、高揚した気分でいっとき生の充実を味わい、万能感さえ湧くが、その後は手ひどい幻滅に見舞われもする。さらに、三十ともなれば、そうそう「冒険」に浸ってもいられまい、翳りも見えはじめる。たとえ酒や交友でしばし持続できたとしても、所詮、感興は消えるべくしてあらわれるものだ。だが、そこから何とか盗み取った自尊の種火を絶やさずにおけば、まだかなりは進めるのが若さである。

《あの冒険の感情は、絶対に出来事から来るのではない。そのことは証明された。あれはむしろさまざまな瞬間が鎖のようにつながる仕方なのだ。これこそ起こったことなのだと思う。つまり人は不意に感じるのだ、時が流れており、一つひとつの瞬間は別の瞬間へと導き、別な瞬間はさらに違う瞬間へと導き、こんなふうにどこまでも続いていくということを。また各瞬間は消滅するし、それを引き留めようとつとめる必要もない、といったことを感じるのだ。》

つまりは、「冒険の感情」とは、生を何らかの特別な流れを持った体験と感じさせるような持続の感得であり、生が時の進行によって〈いまここ〉となり、さらに動いていくことの強烈な自覚だというのだ。
有無を言わせず動いていく時の推移は、そのままわれわれ自身の動きであり、意識の持続でもあるはずだが、ふだん人はそれに触れようともせず、尻尾をつかもうともしない。
だが、時は、さりげなく皿を片付けてしまう給仕のようにわれわれのささやかな生の宴を仕切っているのだ。そこでは、まだ食べ終わっていない料理が早々に消え去り、見たくもない老いた腐肉が突如眼前に置かれもするのである。

《一人の女を見ると、彼女も老いるだろうと考える。ただ、彼女が老いていくのを見るわけではない。だがときには、彼女が老いていくのを見ているような、自分が彼女と一緒に老いていくのを感じるような気がする。これが冒険の感情だ。》

われわれは、時の流れを体験しながら、それをつねに意識しているわけではない。人が老いていくのを知ってはいるが、持続として感じてはいない。それが、時として、ありありと感じられることがある。それこそが、「冒険の感情」だというわけだ。
いささか飛躍はあるが、ふと試してみたくなる興味深い比喩ではないか。

《もし私の記憶違いでなければ、これは時間の不可逆性と呼ばれているものだ。冒険の感情とは、何のことはない、時間の不可逆性の感情なのだろう。だがどうしてこの感情を、人は常に持っていないのだろう? 時間は常に不可逆的ではないのだろうか? ときとして、人は自分のしたいことが何でもできるような印象を持つことがある。進むも退くも自由自在で、大したことではなさそうな気がする。だがまた逆に、網目が詰まったような感じのすることがあり、その場合は失敗が禁物になる。なぜならもうやり直しがきかないだろうから。》

持続する生をありありと感じ、さらに行動し、前へと進もうとする「冒険の感情」は、「時間の不可逆性」を体得し、意識の流れをひたすら先へとたどろうとするのである。ふだんは特段の意識を持たない時の流れが、時に急流や瀑布に変じて感じられることもあるのだ。
時間の意識のありようの変化、その書き分けは、プルーストに影響を受けたという『嘔吐』の核心ともなるはずのものだが、どうであろうか。
そこで「私」は、かつての恋人アニーのことを思い出す。アニーは「私」に、二人でいる時間の理想的な充足を求めたのだが、「私」はそれをうまく果たせなかったのだという。要は、「私」は女との時間をうまく保てなかったのだ。アニーと「私」を引き離すものも、時間意識の不調和だとされているのだ。
ここでは、アニーがジブチに、「私」がアデンにいた折、制限された逢引の時間が、別れのまぎわに濃密な時の流れと変じた経験が回想される。
このときは「上々の出来栄えだった」というが、『嘔吐』のアニーとの場面は、いささか私を退屈させる。『ウジェニー・グランデ』に対抗したかのような男女のかみ合わない会話や、しらじらとした気持ちの齟齬等は、独特な意味を付与するまでもなく、私にはごくありふれた男女の離反と見えてしまうのである。
個性と思い込みの強い女に見限られた男が、その事実を意識し納得するまでの行程が、自分の仕事に対する見限りと並行してあらわれてくるのだ。だが、それはまだ後の日付に続くのである。
そのはじまりとして、「私」はこれまで続けてきたロルボン侯爵をめぐる調査の価値を疑うのである。

《この噓で塗り固めたけちな自惚れ男が、癪に障って仕方ない。おそらくそれは悔しさのせいだ。私は彼が他人に噓をつくと有頂天になったが、私だけは例外にして欲しかったのだ。彼と私の二人だけがぐるになって、これらすべての死者の頭越しに理解しあい、彼がいずれ私に、この私に対しては、真実を言うだろうと思っていたのだ!》

「私」は歴史を追究してきたが、資料からだけではロルボンという「嘘で塗り固めたけちな自惚れ男」の実像はつかめないと分ってきたのだ。そのあげく、やるべきだったのは歴史的研究でなく、むしろ「一篇の小説を書く」ことではなかったのかと疑うのである。
生業を持たずとも済むだけの資産を持つ利子生活者で、独身の三十男ロカンタンは、漱石の『それから』の主人公で、やはり三十歳の代助と並べることもできる。
ロカンタンは、実業家の父や兄の資産と援助の下で生活し、高尚な趣味の世界に生きる代助と同様「高等遊民」である。定職を持たない彼らは、社会的繋がりを要せずに生活する自由を保持している。しかも、両者は共に、そうした自分の自由が堅固な社会秩序の中で、いかにも変則的で特別なものであるということも知っているのだ。
彼らは自己の裡に別種の観念世界と価値体系があると自負し、現実を睥睨しようとするが、必ずしもうまくいかない。親の庇護下にはないロカンタンの方がより自由で、勝手気ままに生きているようだが、彼の前にも、厳然とした市民社会の現実があり、「彼ら」の築いた俗世界が幾重にも周囲を取り巻いていることを忘れてはいない。
この後に続く、美術館で目にする模範市民の肖像の数々に対するロカンタンの異様な注視が、それを逆説的に語るだろう。
と、ここまできて、またもや生業から外れて生きる老年の立場を持ち出せば、彼らの若さと富裕は別として、その社会的孤立のありようは、よく分かる気がするのである。
代助は、親の言う通り地主の娘と結婚すればさらに保証された生活が手に入り、ロカンタンも、ロルボン論を書き上げて研究職を望めば、俗界に地位を得ることも可能なはずである。しかし、彼らはどちらも躊躇し、悩んでいるのだ。
代助は女に迷い、ロカンタンは存在に悩むとは、老人にはいかにも青臭い話と見えるのだが、各々の思考の曲折と個性は分かる気がするのである。
とまれ、ロカンタンは、「鉄道員の溜まり場」食堂で夕食をとり、マダムと儀礼的な性交をし、ロルボンを小説に書いてはいけないのかと考えつつマダムの身体をまさぐり、「反吐のにおいがする」と叫んだというのだ──やれやれ若人よ。
こうして、「仕事」は進捗したが「冒険」を見失った、という一日は終わるのである。

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