hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『蓼喰う虫』を読む(1)──〈整理された優柔不断〉

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 『蓼喰う虫』は、いわば、犬も食わない夫婦の面倒のあれこれを興味深いかたちに仕立て上げ、文化的な色付けをほどこした一篇といえるだろう。
 すでに性的な関係を持たなくなった夫婦が、夫は娼婦のもとに通い、妻は夫の了承の下に愛人を持って、小学四年の息子を気づかいながら離婚へと向かおうとするという話である。
 夫婦は関西在住だが、共に東京出身であり、東京人の目から見た関西の古典芸能や新しい時代の風俗なども盛り込まれている。まさに、現代における、あるエピキュールの世界の現出の試みともいうべき作品であるが、私はその小説的価値を、特殊な夫婦関係への注目や伝統文化の魅力などよりも、すぐれて了解可能な表現によってもたらされる〈人間理解の感触〉という点に見たいのである。

《出かけるとか出かけないとか、なかなか話がつかないのは今日に限ったことではないのだが、そう云う時に夫も妻も進んで決定しようとはせず、相手の心の動きようで自分の心をきめようと云う受け身な態度を守るので、ちょうど夫婦が両方から水盤の縁(ふち)をささえて、平らな水が自然と孰方かへ傾くのを待っているようなものであった。そんなふうにしてとうとう何もきまらない内に日が暮れてしまうこともあり、或る時間が来ると急に夫婦の心持がぴったり合うこともあるのだけれど、要には今日は予覚があって、結局二人で出かけるようになるだろうことは分っていた。》(その一)

 これは、夫・要(かなめ)が妻・美佐子の父親から人形浄瑠璃見物に誘われ、乗り気でない妻を前にぐずぐずしているという場面である。
 「ちょうど夫婦が両方から水盤の縁(ふち)をささえて、平らな水が自然と孰方かへ傾くのを待っているようなもの」という卓抜な比喩の力もあって、この夫婦の特殊な事情を離れて、より一般的な男女関係のあり方──消極的な姿勢によって維持される場面の心理をごく分かりやすく整理してみせた表現と見えるだろう。
 夫も妻も相手次第で動こうとして両すくみのまま過ぎてしまうこともあり、また、ひょんな具合で双方の心持が合致して動きだすこともあるという、日常生活の中でしばしば見られるような心理過程が、特に美文ではないスムーズな文章によって描出され、読み手の納得を誘うのだ。
 さらに、夫の心理描写が続く。

《が、分っていながら矢張受動的に、或る偶然がそうしてくれるのを待っていると云うのは、あながち彼が横着なせいばかりではなかった。第一に彼は妻と二人きりで外を歩く場合の、―――此処から道頓堀までのほんの一時間ばかりではあるが、お互の気づまりな道中が思いやられた。それに、「須磨へ行くのは明日でもいい」と妻はそう云っているものの、多分約束がしてあるのであろうし、そうでないまでも、彼女に取っては面白くもない人形芝居を見せられるより、阿曾の所へ行った方がいいにきまっていることを察してやらないのも気が済まなかった。》(同前)

 夫が「受動的」になっていることの理由が二点あげられている。第一は、妻と二人で目的地まで行くことが「気づまり」だからであり、第二は、妻が人形芝居見物よりも愛人のもとに行きたいと思っているだろうとの忖度からというのである。
 歌枕でもある地名「須磨」と、そこにいるらしい妻の愛人の名「阿曾」、さらには大阪を代表する地名「道頓堀」などがスパイスとなって、読み手はさらに個別の夫婦の状況の中へと誘われていく。
 これだけを見ても、小説『蓼喰う虫』の描写の力が十分に感じられるだろう。ここにあるのはいわば〈整理された優柔不断〉とでもいうべきもののかたちなのである。

#谷崎潤一郎 #蓼喰う虫 #別れる夫婦 #了解可能