hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

器量のよくて、心よし

f:id:hosoyaalonso:20230120201708j:image

 文楽劇場で『義経千本桜』三段目を観た。実に久し振りである。第八波とはいうが、もうそろそろとの思いか客は六、七分の入り。
 「鮓屋(すしや)の段」に至る前に、まずは「椎の木の段」。太棹が響き、太夫がおもむろに調子をつけながら唸りだす。
 何気ない街道の茶屋に、働き者の女房と幼い息子。その女ざかりの女房の出で、義太夫は「器量のよくて、心よし」と紹介。三味線の音と抑揚で、その単純な願いにも似た善良なる女のイメージが、はたと人形に貼りつくのだ。
 人形はあくまで小さく、ぎごちなく、固い表情のまま操られ、それがかえって観る者の雑念を不要とし、白い木偶の顔が何とも言えぬ美しさに輝くのである。
 〈見た目も美しく、心もまたよい〉という観念は、生身の人間ではなく、この木切れと端切れとで作られた人型にこそふさわしく、それがやがて、義父の恩人・重盛の子・維盛とその妻女と一子を救わんがため、みずからと子とを犠牲として提供するに至るという運命をも担うのである。
 女房・小せんは、ならず者の夫・いがみの権太と共に、ついには恩義を尽くすという人の道に従うことになるのだ。この大時代の義理人情の物語が、いまなお、かくも観る者の胸に迫るのはなぜか。
 やはり、音曲と語りの力、そして、浄瑠璃人形の動きの哀切が、あらがいようのない美となり、祈りともなって、観る者の俗塵にまみれた心を洗うのだ。たとえいがみの権太は悶絶し、その女房・子も犠牲になろうと、われわれは悲劇的感情によって深々と満たされるのである。
 この三年、多くの人々の死を経てきたわれわれの前で、長きにわたって人の作り出し、こうして伝え続けた美と力とが、なおかけがえのないものとしてあるのだと、あらためて思えた一日だった。

#文楽 #義太夫 #義経千本桜 #悲劇