hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

もどかしき〈不在〉ー川端文学の魅力ー 【旧稿より】

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 伊藤整の『変容』(1968昭43)を読んだところである。
 初老の画家の私生活、次々と女たちとの交わりを繰り返していく心理が克明に語られ、しかもそれが、この社会のただ中にあって、たしかな現実性をもつものとして迫ってくる。老いたことで、むしろ自在感を得、倫理からの解放をも感じつつある主人公の「私」は、より自由に、奔放に生きんとし、「人生には予定外のことが色々とあるものだ」と思い、「感覚の求めるものすべてを善としたい」などと嘯く。その目は女たちの「変容」――老いを見据えつつ、なおそこに形を変えて息づく「美」と「性」とを味わいつくそうとするのだ。
 「好色文学」の傑作であり、「老い」の学びの好例でもある。「愛情」と「金銭」の案配をめぐる配慮等、その「生活と意見」も実際的であり、示唆に富む。
 「芸術」についての卓見も、又。
《私が一生に描く絵のうち、本当の仕事というのは、どの絵にもかすかに漂っている極めて小さな、些細な部分である。そして私は、その種の小さなことを、私の幾倍も、幾十倍も為し得る画家たちが存在したことを知っている。世間が、画壇がその常識として考えているのと別な極く小さなところに、真の仕事というものはあるのだ。》
 個性を競う「芸術」表現の実相に対する、かくも厳しい裁断があっただろうか。「芸術」を、「極く小さな」表現の細部においてのみ、かろうじて「真の仕事」として実現するに過ぎないもの、とまで限定する見解には、実作者の抜きがたい悲観があると同時に、また、手堅い自負の裏打ちもある。
 かくの如く、自分の「仕事」の「小さな」確実性を受けとめつつ、自らの「性」をも「善」として享受できる境地とは、と感心し、かつまた「いやな臭気を放つところの、執着の強い老いたる動物」と顧みて、自己のおぞましい姿に嘆息し、「人生の真相というのは捉えられない」と呟く「私」にも、密かに共感を抱く。
 そんな、種々のたっぷりとした読後感をもたらす小説であり、まさに、伊藤整の人間理解の「自在な到達点」(平野謙)が、そこにはあると言えよう。
 そして――、川端文学には、それが無いのだ。
 むろん、「老い」や「性」に関してのもろもろの読み取りは、読み手の側の自由である。しかし、作品自体にはそうした確かな認識、姿勢、指針といったものがどこにも見当たらない。見当たらぬだけでなく、そうした社会性をもった(わけ知りぶった)大人の生き方、そのたしかな方向性や安定感、そしてそこににじむ濃密な魅力あるいはおぞましさ等々、いわば、小説というものが人間の属性として掴もうとし、描こうとしてきたはずのものが、まるで、ふと霧消したかと思わせるほどに、みごとに欠落しているのだ。
 そして――、それが今、私にとって川端文学の魅力であり、問うに価する、もどかしき〈不在〉である。