hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

限りある認識

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「とにかく合理的に考えるべきよ、すべからく」と、タマラはいう。
「合理か非合理かという二分法自体がはたして合理的といえるのかどうか、などと考えてみたらどうですか」と、私。
「そんな余裕はないわ、人生は短いのよ」と、タマラ。
タマラは、ユダヤ系のアメリカ人。市営のコミュニティカレッジで外国人相手に英語を教えている。恰幅が良く、強気な中年女性だが、神経質で、デリケートな面も持っている。
「合理的か否かは、思考の条件、目的、精度等によって左右される評価なので、自分の思考や行動について即時的に判断することは難しいのではないですか」
「そんなことをいっている人は、考えること自体を楽しんでいる好事家に過ぎないわ。勝手に樽の中で寝そべっていればいい。たとえ、家に火がついても」
「壁から天井にまで火が移ったら、もう火事は個人では消し止められない、といいますね。そんな時は樽に入ったまま転がっていった方が安全で、生命保持を目的とすれば合理的といえるのではないですか」
「命の安全が確保されるのなら、せめて樽から出て、消防の活動を手伝うなり、行動を起こすべきよ」
「たしかに安閑と眺めているのは無理だから、慌てて飛び出し騒ぎまわるのは当然でしょう。でも、それははたして合理的な行動なのか。本能的なものでは」
「てきぱきと瞬時に判断して、最善を尽くそうとするという行動は合理性に則っているといえるわ。何もせずに見ているだけでは、保険金詐欺と疑われるかもしれない」
「なるほど、様々な条件が出てきますね。こうしたら、あれに障る、こうしたら、あれがうまくいかない等々。自分の気持ちに反して無理に正しいことをしようとしても、ストレスが溜まってしまうとすれば、自己保全のためには合理的ではない等々、後から後から条件が出てきて、スーパーコンピュータでもなければ最善の判断は無理になりませんか」
「そう、その通り。だからこそ、私たちは、その場その場で合理性をめざすべきなのよ」
「ということは?」
「限りある認識、思考、判断、そして生命をこそ条件として、眼前の事態、現実に向かっていくべきだと思うわ」
「なるほど、とすると、あなたのいう合理性とはたんなる認識の様態ではなく、追求すべき理念、合理性信仰とでもいうべきものになりますね」
「そうかもしれないわ。私がイスラエル旅行をして痛感したのは、歴史は変えようもなく、現実は強大な力で現前しているということよ。それがこの世界だわ。そこで何を求め、何をすべきか、刻々に判断し、行動していくのが、生きるということなのだ、と思ったのよ」
三十年前、中西部の田舎町での会話である。
年上の頑固な女性を相手に“柔軟さ“の価値を説くつもりで始めた議論で、当時将来を模索中だったタマラの焦燥、せっぱつまった思いは、自分ではよく分かっていたつもりだった。
しかし、今となれば、それはまだ“痛感”できてはいなかったのだと思えてくる。
合理的であるべし、という、非合理なまでのひたむきさが。