hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(1)――図書館、独学者の幻影

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    サルトルの『嘔吐』は図書館が舞台だ。
    すべては「私」の日記という体裁である。
    地方の図書館で文献調査を続ける「私」=ロカンタンの前に一人の奇妙な男が現れる。図書館に通う熱心な読書家である。ロカンタンは彼を「独学者」と名付ける。「独学者」はロカンタンの傍らで、次々に本を借り出して読んでいく。見れば、まったく関連性のない雑多な読書を行っているのだ。いったい何のために。
    それがある日、急に思い至るのだ。
《不意に彼が最近に参照した本の著者名が頭に浮かんだ。ランベール、ラングロワ、ラルバレトリエ、ラステックス、ラヴェルニュ。それは閃きだった。独学者の方法が分かった。彼はアルファベット順に知識を身につけているのだ。私は一種の感嘆の念を覚えながら、彼を見つめた。かくも広大な規模の計画をゆっくりと執拗に実現するためには、どれほどの意志が必要であろうか? 七年前のある日(彼は七年前から勉強していると私に語っていた)、彼は意気揚々とこの読書室に入って来たのだ。壁を飾る無数の本に視線を走らせて、ほぼラスティニャック〔バルザックゴリオ爺さん』〕のようにつぶやいたに違いない、「さあ、お前と一騎打ちだ、人類の学問よ」と。それから一番右側の最初の書棚にある最初の本を取りに行った。不動の決意に、尊敬と畏怖の感情を交えながら、彼はその本の第一ページを開いた。現在の彼はLまで来ている。JのあとがK、KのあとがLだ。彼は甲虫目の研究から一足飛びに量子論の研究に移り、ティムールにかんする著書から、ダーウィニズムを攻撃するカトリックのパンフレットに移行した。一瞬たりともまごつかなかった。彼はすべてを読んだ。単為生殖について知られていることの半分を頭に蓄積し、生体解剖を非難する論拠の半分をためこんだ。彼の背後に、彼の前方に、ひとつの宇宙がある。そして彼が、一番左の最後の本棚にある最後の本を閉じながら、「さて、それで?」とつぶやく日は近づいているのである。》(鈴木道彦訳)
    これはやはり、感動を誘う場面というべきだろう。そして、『嘔吐』を読んだ読者に「独学者」は忘れられない人物となるのだ。それはなぜか。なぜこんな人間のイメージが強く印象に残るのか。無謀というよりは愚かな、凝り固まった男、しかも、彼自身は生き生きとその場で生息しているというのだ(むろん、いくつかもめごとも起こすのだが)。
    反ブルジョア的思索といった作品表層の見やすい方向性とは別に、本文から飛び出た人物が若い読者の中で生き続ける。私自身、図書館に行くたびに、ひょっとしてこの建物のどこかに独学者がいるのでは、といった思いに一瞬とらわれもしたのである。それは、馬鹿げた好奇心とある種の不安を帯びた想像だった。
    特定の本を読みに図書館に行く、または、何かを知ろうとして図書館に行く、でなければ、何か面白い本を求めて図書館に行く。宿題を抱えて、昼寝をしに、また弁当を食べに、今は映画を見るのにも、人は図書館に行くのである。ハーバードの学生オリバーはレポートを書くために隣の女子大ラドクリフの図書館で資料を借りようとするが、受付のバイト学生ジェニーに咎められ、それがきっかけで二人は恋に落ちる。そんなキャンパス小説『A Love Story(ある愛の詩)』は、ハーバードの現役教授が書いた菊池寛並みの傑作だった。
 それこそ、ある詩人の本の置かれた棚に行けば、同好の士と出会うことも可能だろう。まさに図書館は人と識る、また強烈な出会いの餌食ともなり得る場所なのである。
    私のかつての勤務先は丘の上の私大で、丘の下には国立大のキャンパスが広がっていた。私は学生たちをけしかけ、「いいか必ず一度は○大の図書館に行ってみることだ。ここよりも多くの税金を使って豊富な資料を集めている。基本書は二、三冊ずつ揃っている。館内のあちこちのテーブルでは、学生たちが活発に討論をしている。但し、受付は公務員で甘くはない。身分証を見せろ、何を探しに来た、と意地悪に聞かれる。その時、どこにでもあるような雑誌の名を言ったら赤恥をかくぞ。せめて昭和十年代の『中央公論』を閲覧に来ましたと堂々と答えるんだ」などと言っていた。
    さっそく行ってみるという真面目な学生もいて、翌日やや興奮した顔で現れ、明るい声で「やっぱり○大はちがいますね」などと言って、私をがっかりさせたものだ。
    漱石の『こころ』でも図書館は重要な舞台となっている。突如Kが現れるのである。
《ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引ひっ繰くり返して見ていました。私は担任教師から専攻の学科に関して、次の週までにある事項を調べて来いと命ぜられたのです。しかし私に必要な事柄がなかなか見付からないので、私は二度も三度も雑誌を借り替えなければなりませんでした。最後に私はやっと自分に必要な論文を探し出して、一心にそれを読み出しました。すると突然幅の広い机の向う側から小さな声で私の名を呼ぶものがあります。私はふと眼を上げてそこに立っているKを見ました。Kはその上半身を机の上に折り曲げるようにして、彼の顔を私に近付けました。ご承知の通り図書館では他ほかの人の邪魔になるような大きな声で話をする訳にゆかないのですから、Kのこの所作しょさは誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。
Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物いちもつがあって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。》
    緊迫感に満ちた場面である。
    「私」の「一種変な心持」は図書館でのひそやかな会話によってこそ浮かび上がるのだ。そこでは、Kの精神が陰画のようにあらわれ、その一挙手一投足が意味ありげに迫ってくる。これもまた、図書館を利用する若者には、十分に分かる情景となっているのだ。
    あるいは、図書館自体がわれわれを食い物にしているのかもしれない。われわれの精神はかみ砕かれ、人類の英知とやらをまぶして飲み込まれ、しばしの後、木偶のピノキオの如く怪物の胃の中から消火不良のまま吐き出される。目をまるくして、いったい何が起こったのかと問うひまもなく、閉館時間となって灯は消えるのだ。
    しかし、人はやがて、それこそが独学者にふさわしい場なのだ、と気づくだろう。仰々しく並べられた万巻の書を前にたじろぎもせず、卑小なる己の力も顧みず、静かにまたよろよろと、情熱に震える手を伸ばす者、これぞアロンソ・キハーノその人か、とも思わせるのである。黴の生えた書物がとうに功利を去った彼に取り憑き、ロシナンテが嘶く日も近いのでは、と思わせるのだ。
《今はお八つの時間だ。彼は無邪気な態度で、パンとガラ・ピーターの板チョコを食べる。彼の瞼が下を向いてさがっているので、私はカールしたような彼の美しい睫毛をゆっくり眺めることができる──それは女の睫毛だ。彼は古いタバコの匂いを発散させているが、ふっと息を吐き出すときは、それに甘いチョコレートの香りが混じる。》(鈴木道彦訳)
    本家の独学者は、どうやらまだどこかでチョコレートを齧っているようである。