hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(2) ──『嘔吐』と『異邦人』、金曜日と日曜日

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《寝ることにしよう。私は治ったのだ。まるで小娘がやるように、真新しいきれいなノートにその日その日の印象を書くのはやめにしよう。/ただある場合にのみ、日記をつけるのは興味深いことかもしれない。それは実に……》『嘔吐』「日付のないページ」鈴木道彦訳

サルトルの『嘔吐』は日記体で書かれている。日々記された記事というスタイル。それが、「私」(ロカンタン)の思考をたどりやすいものとして見せているのだ。そこには「ただある場合にのみ」などという、読み手を誘う語も埋め込まれている。

《金曜日
三時。この三時というのは、何をしようと思っても、常に遅すぎるか、または早すぎる時刻だ。午後の奇妙なひととき。今日はそれが耐えがたい。
寒々とした太陽で、ガラス窓の埃が白っぽい。色の薄れた白濁した空。今朝は排水溝の水も凍っていた。
私は暖房のそばで、食べたものを重い気分で消化している。今日は無駄な一日に終わることが、あらかじめ分かっている。日暮れになればべつかもしれないが、そのときまで何一つろくなことはできないだろう。それは太陽のためだ。太陽はぼんやりと、工事現場の空中に漂う白っぽく汚れた靄を金色に染め、私の部屋のなかに、すっかり薄れたブロンド色になって流れ込んでくる。そしてテーブルの上に、鈍く不自然な四つの照り返しを作り出す。》『嘔吐』「金曜日」

共感可能な意見が読み手を導いて行く。
現にいま、日曜日の午後にこれを書いている私は、自分が同様な気分でいると感じる。午前中の日差しはすっかり弱まって、寒々とした空が見える。「無駄な一日」という言葉が私を引きつける。そして、「それは太陽のためだ」という言い訳も、気だるい納得を誘うのだ。

《自分を振り返るためには完璧な一日だ。太陽が容赦のない裁きのように被造物の上に投げかけるこの寒々とした明るさ──それが目を通して私のなかに入りこんでくる。私は滅入るような光で、内部を照らし出されている。十五分もすれば確実に、この上もない自己嫌悪に到達するだろう。まっぴらだ、そんなことはご免こうむる。昨日書いたロルボンのサンクト=ペテルブルク滞在にかんする文章も、あらためて読み直すことはないだろう。腰掛けたままで、私は腕をだらんと垂らしている。あるいは気乗りもせずに、いくつかの言葉を書きつける。欠伸をする。そして夜になるのを待つ。暗くなったら物も私も、このあやふやな状態から抜け出せるだろう。》『嘔吐』同前

ロカンタンは周囲を見回し、愚痴を言い、考える。思考は止まることなく、彼の存在のかたちとなって記されていく。怠惰な現在も、その思考によって意味付けられ、生の部分となって留められていくのだ。

カミュの『異邦人』も、少なくとも第一部は、日記体と見ることができる。「ママン」の訃報が届いた日から始まり、アラブ人を撃つまで、「私」(ムルソー)の経験と認識が語られるのだ。
しかし、両者には歴然とした違いがある。ムルソーは「太陽のため」に一日を棒に振るのではなく、人を殺し、一生を棒に振るのだ。その「日記」は読み手を誘わず、突き放すかのようだ、
順繰りに日々の出来事と思考をたどって、異様な領域へと至るという点で、両者は似ているが、その過程においてへだたりはすでにあきらかなのだ。

《眼がさめると、マリイは出て行った後だった。彼女は叔母さんの所へ行くつもりだと言っていた。きょうは日曜だと思い、嫌になった。日曜は好きではない。ベッドへ戻り、枕のにマリイの髪の毛が残した潮の匂いを求めた。十時まで眠った。それから煙草を吸い、昼まで横になっていた。》『異邦人』「第一部2」

これもまたよく分かる情景である。ただし、ここにあるのはあけっぴろげで単純な叙述であり、余計な思考は記されていない。
この日曜日、ムルソーは部屋に居続ける。場末町の大通りに面した部屋で、ベランダから通りを眺めるのだ。散歩に出かける家族連れ、半ズボンとセーラー服の少年、薔薇色のリボンをつけた少女、大柄な母親、お上品な父親。髪に油を塗り赤ネクタイをした場末の青年達、ひまになった店番、猫、煙草売りや給仕。やがて夕方となり、郊外の競技場から帰る観衆ですずなりになった電車が着き、気勢を上げる者たちが降りてくる。戻ってきたお上品な父親と家族、映画館の観客、界隈の娘らと青年達が通る。顔見知りがムルソーに挨拶する。

《このとき突然街灯がともり、夜空の最初の星々を青ざめさせた。歩道とその上の人影や光を眺め続けていたので、眼が疲れてきた。街灯はねばねばした歩道をきらめかせ、電車は規則的に間隔をおいて、輝く髪や微笑や銀の腕輪を照らし出した。やがて、電車の本数は減り、樹木や街灯の上で夜が濃くなるとともに、いつのまにか街は空虚になった。猫が一匹人気の絶えた通りをゆっくりと渡っていく。私は、夕食をとらねばと考えた。椅子の背に長いこと載せていた首が少し痛んだ。パンと麺類を買って来て料理し、立ったままで食べた。また窓辺で煙草をのもうとしたが、外は冷えて寒かった。ガラス窓を閉めて戻ると、机の端が鏡の中に映っているのを見た。その上には、アルコールランプとパン切れが並んでいる。やっと日曜日も終わった。ママンはもう埋められた。また私は勤めに出るだろう、結局何も変わったことはなかったのだ、と私は思った。》

なぜ、こうして語られた情景が私を引きつけるのか。それはありふれた独身サラリーマンの日曜日で、特段の意味もなく退屈なはずだが、なおかつ、ある美しささえもって迫って来るのだ。
サルトルは、その『異邦人』解説で、「ヘミングウェイによって書かれたカフカだ、という人がいる。私はカフカを見出さなかったことを告白する。カミュの見方はまったく地上的だ」と評した。その通り、ここにはカフカはいない。が、ヘミングウェイを見ることは可能だろう。ぶっきらぼうに人と物を見やり、放り出すように語られる言葉が、読み手を引きつけるのだ。
それでは、対するに『嘔吐』のロカンタンは、その憂鬱な金曜日に何を思ったのか。

《私は昨日の空がとても好きだった。雨で黒く閉ざされた空は、まるで涙ぐましくなるほど滑稽な顔を、窓ガラスにぴったりとくっつけてくるようだった。ところが現在の太陽は、滑稽であるどころか、正反対だ。私の好きなすべてのもの、工事現場の赤錆や、囲いの腐った板塀などの上に、けちけちした尤もらしい光が落ちてくる。それはまるで、まんじりともせずに過ごしたひと晩のあとで、前の日の熱に浮かされたような決断や、一語も削らず一気に書き上げた文章に、じっと注がれている翌朝の視線のようだ。ヴィクトール・ノワール大通りの四つのカフェは、夜になると軒を並べて燦然と輝き出し、カフェという以上のもの──水族館、船、星、あるいは白い巨大な目──になるのだが、それも今は謎めいた優雅さを失っている。
自分を振り返るためには完璧な一日だ。太陽が容赦のない裁きのように被造物の上に投げかけるこの寒々とした明るさ──それが目を通して私のなかに入りこんでくる。私は滅入るような光で、内部を照らし出されている。十五分もすれば確実に、この上もない自己嫌悪に到達するだろう。まっぴらだ、そんなことはご免こうむる。昨日書いたロルボンのサンクト=ペテルブルク滞在にかんする文章も、あらためて読み直すことはないだろう。腰掛けたままで、私は腕をだらんと垂らしている。あるいは気乗りもせずに、いくつかの言葉を書きつける。欠伸をする。そして夜になるのを待つ。暗くなったら物も私も、このあやふやな状態から抜け出せるだろう。》『嘔吐』同前

ここにも私を引きつけるものがある。否、むしろこれこそが、かつての私の求めた世界だった。ひとつひとつの物と現象に目を向け、その特質を見極め、受け入れ、拒み、批評する。外界と自分との関係に絶えず意識的であろうとし、思念をめぐらせる、それが世界に向き合うということだと考えていたのだ。
サルトルは、たしか同じ解説で、ムルソーを「不条理のサンチョ・パンサ」と呼んでいたが、今となって、それはロカンタンにこそ当てはまるのではないかと思えてくる。思考力を持ちながら十分に愚かしく、俗界にありながらなお不在のドン・キホーテに脅かされる者、それは私にも、小生意気なかつての自画像となって跳ね返ってくるのだ。決してカフカの如き「超越」もできず、日常の不可能性のただ中で意識し続ける者。私もまたそんな状態に陥ったまま、一方で『異邦人』を読み、動かされていたのだろう。
しからばもし、ムルソーがサンチョではなく、ドン・キホーテだったのだとすれば、彼をたぶらかしたものは一体何だったのか。彼を動かしたものは、決して、アロンソ・キハーノを動かしたような書物──知識ではなかった。
それは太陽だった、と彼は言う。太陽、すなわちそれは、強烈な光によってあかあかと照らし出された現在──〈いまここ〉だったのである。〈いまここ〉こそがわれわれを動かし、また死なしめるのだ。
『異邦人』末尾で、死を前にしたムルソーの感じる「幸福」とは、この「世界」のただ中〈この時・この場〉にある、という生の得心をこそ語っていたのである。

#サルトル #嘔吐 #カミュ #異邦人 #ドン・キホーテ