hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

【旧稿より】「伊豆の踊子」の作者

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 「伊豆の踊子」といえば、あまりにもよく知られた作品である。川端と聞けば即座に「伊豆の踊子」と応ずる人も多いだろう。では川端本人は、生前「伊豆の踊子」の作者と目された自分をどう思っていたのか。
 川端の随筆に「『伊豆の踊子』の作者」と題した文章がある。「一草一花」の総題で小型雑誌「風景」の昭和四十二年五月号から翌四十三年十一月号まで連載されたものである。そこで川端は、書き出しからして「『伊豆の踊子』の作者であることを、幸運と思うのが素直であるとは、よくわかっている。それになにか言うのはひがごころであろう」とただならぬ調子で、「『伊豆の踊子』の作者とされ続けての四十年」に対するこだわりや反発を率直にあらわしたのである。
 ある日タクシーに乗り、「東京駅に近づいたころ、すまいはどこかと聞かれて、鎌倉と答えると、運転手は間髪を入れずに、伊豆のような気がしていた、踊子が……(なんとか)と言った。私はふっと身がすくんだようだ」という経験が語られる。過剰ともいえる反応だが、「作品」というつきせぬ謎が、不意に今ここに出現して彼を脅かしたかのようであり、あたかも四十年が一挙に無化された衝撃のごとく語られている。
 町中で見知らぬ人から「伊豆の踊子」の作者と声をかけられる経験がさらに続く。川端の名を思い出せず「伊豆の踊子」の題名だけを覚えている者もあり、川端は作者が忘れられ作品だけが残ることを、「そんなことになってくれると、作品としても作者としても、一つのありがたいしあわせであろうが、『伊豆の踊子』がそこまで命がもつか、はなはだ疑わしい」と、弱気とも見える思いを述べる。
 ここで川端の自作に対する姿勢は、時に投げやりとさえ感じさせるほど否定的と見えるのである。壺井栄の葬儀の帰りに、「二十四の瞳」が一番有名だと語る運転手の言葉に、ふと、自分の葬儀の折には同様に「『伊豆の踊子』が、一番有名ですね」と言われるのかと思い至り、「私はやはり『伊豆の踊子』の作者として終わるのであろうか。そう思うと、『伊豆の踊子』の作者ということに、むらむらと反発嫌悪を感じ」るのだという。また草柳大蔵から「伊豆の踊子」や「雪国」などは「抹殺したいと思わないか」と聞かれてとまどい、「芸術的良心」や「潔癖」を探られたようにも感じる。こうした自作に対する過敏さ、嫌悪や含羞こそが、まずはこの随筆作品の原動力となり迫力ともなっているのである。
 しかしよく見れば、ここでわれわれを引きつけるのは否定的な姿勢の切実さにとどまらず、こわばった自己否定や嫌悪のただ中でも自作の何かにあらためて目を向けようとする「作者」その人の姿なのだ、と分かるだろう。そこで印象深く語られたのは、むしろ不満足な旧作について耐えつづけた作者が、ついに自作との再会、再読に至るという道すじなのだといってもよい。その上であらためて作品との再会の困難が、過去の生き直しの困難と重なるようにして浮かび上がってくるのだ。
 「作者」とは、いわば作品についてこの世で唯一責任をとりうる者である。しかも、彼は自分が一体何を作り出したのかを客観的に見ることが難い。そこで、今眼前にある作品とは何か、かつての自己に出会うようにして問いかけるその姿が、われわれを動かすのである。それは、「作者とは何者か」と考える者にたしかな手がかりを与えてくれるだろう。
 この連載は、昭和四十三年十一月号の出された十月に至って、折から突発したノーベル賞受賞決定の騒ぎとともに断ち切られてしまった。その後は、「伊豆の踊子」にとどまらぬ川端文学へと世界の関心が集まることになったわけである。だが、そうした世間の華々しい注目は、独り作品へと向かいつづけた作者その人の心中をついに満たさなかったのであろうか。「作品」とは、そして「作者」とはついに至りえぬものなのか。一人のすぐれた作者によって残された作品世界を前に、あらためてじっくりと考えてみるべき時が来たようである。