hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(5)──暗い通りと物語

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 すこし前に戻ろう。恰好な物語の断片が語られていたのだ。そこでは、「私」=ロカンタンが周囲へと向ける視線の動きも確認できるはずである。

《私は左に向きを変える。あそこへ、並んだガス灯のはずれにあるあの穴のなかへと踏み出して行こう。〔略〕少しのあいだ退屈な道がある。右側の歩道沿いに灰色のガス状のかたまりがあり、点々と明かりがともされて、貝殻の鳴るような音を発している。これが〈旧駅〉だ。この駅の存在が、ノワール大通りの最初の百メートルほど──ラ・ルドゥート大通りからパラディ街まで──の部分を受胎させて、十本ほどの街灯と、軒を連ねた四つのカフェを産ませたのである。「鉄道員の溜まり場」と他の三つのカフェで、昼間は一日中くすぶっているが、夜になると明かりがついて、道路に長方形の光を投げかける。私はさらに三度にわたって黄色い光の放列に浴した。乾物屋兼雑貨屋のラバシュからは一人の老女が出てくるのを見かけたが、彼女はスカーフを頭の方まで引き上げて駆けだした。そして今はそれもお終いだ。私はパラディ街の歩道の端、最後の街灯の横に立っている。アスファルトの帯はそこでぴたりと終わる。パラディ街の反対側からは、暗闇と泥が始まる。私はパラディ街を横切る。右足は水たまりのなかに踏みこみ、靴下はびしょ濡れだ。散歩が始まる。》『嘔吐』「五時半」 鈴木道彦訳 以下同様

 人気の少ないがらんとした大通り、寒々とした、しかし目的にかなった裏道のような道路である。夜の「七時半」にカフェを出たロカンタンは、「何をしたらよかろうか」と躊躇し、繁華街は「まったく私の気を惹かない」と思い、この暗い通りに曲がったというのだ。
 ここを読みながら私は、名古屋のJRの線路脇や運河沿いの殺風景な道路を思い出す。さらには、かつて郁達夫の歩いた名古屋を。中国人留学生であった郁達夫が『沈淪』に描いた名古屋の道は、読んでいて苦しいほどである。が、今はまずロカンタンの動きを追おう。

《今度は歩きながら、私は両足とも側溝に入れてしまった。車道を横切る。反対側の歩道には、まるで岬の最先端にある灯台のように、一つだけガス灯があって、傷んであちこちが壊れた板塀を照らし出している。
 ポスターの切れ端が、まだその板に貼られている。星の形に破られた背景の緑色の地の上で、美しい顔が憎々しげにゆがんでいる。鼻の下には誰かが鉛筆でカイゼル髭を描き加えている。〔略〕板と板のあいだからは、線路の上に明かりの輝くのが見える。板塀のあとには、長い壁が続く。穴もあいておらず、ドアも窓もない長い壁で、これが終わるのは二百メートル先で一軒の家にぶつかるところだ。私はもはや街灯の光の届く範囲を越えた。今は黒い穴に入りこんでいる。足許の自分の影が闇に溶けこむのを見ながら、私は氷の水に浸かるような気がする。前方には、分厚い暗闇を越えたそのずっと先に、ぼんやりと薔薇色のものが認められる。それがガルヴァニ通りだ。後ろを振り返ると、はるか彼方のガス灯の向こうに、ほんのわずかばかりの明るいものがある。そいつは駅と四軒のカフェカフェだ。私の後方にも、前方にも、ブラッスリーで飲んだり、トランプに興じたりしている者がいる。ここには暗闇しかない。ときおり風がはるかに遠くから、かすかな寂しいベルのような音をもたらす。家庭の物音、車のたてる騒音、人の叫び声や犬の鳴き声は、明るく照らされた通りからほとんど遠ざかることがない。そういったものは、暖かい場所に残っている。だがこの風のたてる音は、闇を突き抜けてここにまで達している。それは他の物音よりも厳しく、他の物音のように人間的でない。》

 光と闇と風の中を行く、こうした歩行の語り自体が、すでにある物語のしぐさを身に着けようとしていることが分かるだろう。それは読み手の気を引くに十分であり、先へ先へとわれわれを誘っていくのだ。
 ここで美術館に飾られたユトリロ佐伯祐三の裏町を思い描いた人は幸せだろう(あるいは荻須高徳の落ち着きを)。これはいま「私」を覆いつくさんと眼前に跳梁する物象の動きとして〈語られ〉ているのである。

《私は立ち止まって耳をすます。寒くて、耳が痛い。きっと耳は真っ赤になっているだろう。だが私は自分を純粋だと感じる。周囲のものの純粋さに私は支配されている。何物も生きていない。風はひゅーひゅーと音をたてて吹き、固い何本もの線が夜のなかに遁走する。ノワール大通りは、通行人に愛嬌を振りまくブルジョワ的な街のように慎みのない様子はしていない。誰もこの大通りを飾ろうなどと気を使いはしなかった。これはせいぜい裏側の道といったところだ。ジャンヌ=ベルト=クーロワ街の裏側、ガルヴァニ通りの裏側である。それでも駅の付近では、ブーヴィルの人たちもこの大通りをいくらか監視している。旅行者がいるので、ときどきは清掃もする。しかしその先になるとたちまちこの道を放り出してしまい、ノワール大通りはがむしゃらに真っ直ぐ突っ走って、ガルヴァニ通りにぶつかる。町はこの道を忘れてしまったのだ。ときどき土色をした大きなトラックが、雷のような音をたてて全速力で通り過ぎる。ここでは殺人さえ起こらない。人殺しも犠牲者もいないからだ。ノワール大通りは非人間的である。まるで鉱物のよう、三角形のようだ。ブーヴィルにこんな大通りがあるのは幸いである。》

 ブーヴィルとは架空の町で、ル・アーヴルルーアンとの説や、「泥boueの町」又「果てboutの町」との見立てもあるというが、地方都市のただ中に開いた穴倉のような大通りのイメージは強烈である。続く本文では、ロンドンなら「グリニッジの裏側」にあるような「吹きさらしの真っ直ぐのびた汚い通路で、歩道は広いが並木はない。そしてほとんど必ずと言っていいほど、都心部をとりまく囲いの外側の奇妙な界隈にあり、そこでは貨物駅や、電車の車庫や、屠畜場や、ガスタンクなどの近くに市街が作られている」場だというのだ。もちろん、これも心象風景という色づけられ物語られた書き割りともいえるのである。リルケのパリとも比較したくなるほどに。

 《〈吐き気〉はあそこに、黄色の光のなかに留まっている。私は幸福だ。この寒さは実に純粋だし、この夜も実に純粋だ。私自身が、凍てついた空気の一つの波ではなかろうか? 血もリンパ液も肉体も持たず、この長い運河のなかで、向こうに見えるあの薄明かりに向かって流れて行くのではないか? 私自身が寒さにすぎないのではなかろうか?》

 これもまた新鮮な述懐である。〈吐き気〉は、作中ですで何度も予兆や伏線のように顔を出してきたのだが、まだ何とかやり過ごせる不快感くらいに見えるだろう。では、ここでいう「幸福」そして「純粋」とは何だろうか。
 それはたんに吐き気が一時おさまったというだけではなく、殺伐とした場として感受された冷厳な周囲そのものなのだ。「寒さ」、「夜」、「空気」、「明暗」等々、冷え冷えとした物象の広がりと変容が「私」を鼓舞しているのである。さらには、それらの非人間的な「純粋」さのただ中で、あたかも自身もその一部であるかのように感じ、それを「幸福」と〈語る〉のである。まるで失意のあげく居直ったか、とみまごうほどに。
 と、そこに人影が現れるのだ。

《人がいる。二つの影。何の必要があって、こんなところにやって来たのだろう?
 小柄な女が、しきりに男に懇願している。彼女は早口に、小声でしゃべっている。風の音に消されて、その言葉は聞きとれない。
 「黙れよ、黙れってば」と男が言う。
 彼女はそれでもしゃべりつづける。不意に男が彼女を押しのける。二人は心を決めかねた様子で、互いに相手をじっと見る。それから男は、両手をポケットに突っこんで、振り向きもせずに去って行く。
 男の姿は消えた。女と私は、今やものの三メートルも離れていない。とつぜん、しゃがれた沈痛な音が彼女を引き裂き、彼女から自分を引き離すと、異様な激しさであたり一帯を満たす。
 「シャルル、お願い、あたしの言ったこと、分かってるでしょ? シャルル、戻って来て。もういや、あんまりひどすぎるわ!」》

 いかにも小説的なくだりである。男女のいさかいが、ありそうな芝居がかった一場となって見取られ、語られていくのだ。まるでツルゲーネフ猟人日記』ではないか、などと言ったら作者は心外だろうか。
 哲学小説と見られる作中の諸所に、こうした人間臭のある痕跡が置かれ、「私」の思考の流れをたどる契機として認知され、しばしの後消えていくのである。

《私は彼女の身体にふれるくらいに、そのすぐそばを通る。それは……だが信じられようか? この火のように燃える肉体、この苦悩に輝く顔が?……しかし、私には見憶えがあった、このスカーフ、このコート、右手の赤紫色の大きな痣、それは彼女だ、家政婦のリュシーだ。私は自分から彼女を助けようとは言い出しかねた。だが必要なら、彼女はそれを求めることができるはずだ。私は彼女の顔を見ながら、ゆっくりとその前を通る。彼女の目は私に注がれているが、私を見ているとは思われない。苦痛のあまり、我れを忘れているようだ。私は何歩か進んで、振り返る……。
 そうだ、彼女だ、リュシーだ。だが変貌して、すっかり取り乱し、途方もない気前のよさで惜しげもなく苦しんでいるリュシーだ。》

 しかし、『猟人日記』のような人間味ある共感のいとぐちは断ち切られ、「私」は、女の苦悩自体も殺伐とした周囲の「純粋」から来たものなのだ、と自ら納得せんとするのだ。

《リュシーはかすかなうめき声をもらす。驚いたように両目を見開きながら、手を喉のところに持っていく。違う、彼女のこれほどまで苦しむ力は、彼女のなかから汲み出されたのではない。それは外部から来たのだ……この大通りからだ。彼女の両肩をとらえて、光の方へ、穏やかな薔薇色の街に住む人びとのあいだへと、連れて行く必要があるだろう。あそこでは、誰もこれほど激しく苦しむことはできない。彼女も柔らかくなり、前向きの態度と、彼女の普通のレベルの苦しみをふたたび見出すだろう。》

 ここには「私」=ロカンタンの歩行が、まったくの無味乾燥な思索者のそれではなく、自分が否応なく人間臭に満ちた世界のただ中にあると知る、若い大人のそれであることを示すに十分な語り、まさに物語的な動きがあるといえるだろう。
 ただし、それらはいずれも頭も尻尾も見せぬ断片のようにそこここに転がっているのだ。あたかも、日々われわれ自身がやりすごしてきたこの世界の諸々の断片のように。

《私は彼女に背を向ける。結局のところ、彼女は運がいいのだ。私の方はこの三年来、あまりに平穏でありすぎた。だからもうこの悲劇的な孤独から、空転する少しばかりの純粋さ以外に何も受けとることができないのだ。私はここを立ち去ろう。》

 若い歩行者ロカンタンは、こうして、目の前で声を立てる家政婦の「運がいい」悲劇に背を向け、おのれの「平穏」をこそ「悲劇的な孤独」を受容しきれぬ重大事として言い募るのである。
 はたして、そこまでの自惚れもなく、かつ、失意絶望をもみごとに遣りおおせてきたわれわれは、〈いまここ〉を、どのような足取りで歩もうとしているのだろうか。
 「この三年来」の語に、現下の閉塞をも重ねながらたどってみた〈読み〉である。

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