hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

へのへのもへ子様

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    ご電便(小生の造語です)嬉しく拝見しました。例によって不十分な話を丁寧にお聴きいただきどうも有難うございました。
 『月と六ペンス』は分からなくて当然です。多くの大人たちがあんな男の生き方を分かり、共感してしまったら、それこそ大変なことになりますから。ただし、共感はできずとも、興味をもつことはできるかも知れませんね。
 もしご近所の一流会社員が急にゲージュツにかぶれたとやらで、家族を捨てて、薄汚れたジーンズ姿でNYのソーホーへ飛んで行ってしまったなどと聞いたら、「えっ?」と聞き耳を立て、とたんに好奇心をかきたてられませんか。
 そんな他人の噂話を聞かされたかのように、ゆったりとした特急の席で気楽に、文庫本をひもとかれたつもりで、と申し上げたのです。
 が、さらにまた、そんなまるでありえないような嘘々しい話を読みながらなお、心の片隅にほんのすこしでも、ああ、今の私にはそんな強い憧れも、夢もすでになく、このぬくぬくとして贅沢な今の生活を惜しげも無く捨ててしまうほど無謀な、しかし狂おしいほどの情熱など、何も残ってはいないのだ。ゲージュツも恋も私にはもはや何の縁もないものになってしまった。
 良き夫にできた子等、かわいい孫たち、住まい、美食、車、旅行、ブランド品、カルチャーセンター、ボランティアから政治参加まで、選り取り見どり、諸々にかこまれた今の生活を満喫している私はただただ現世を無難に生きようとしているに過ぎないのだ、といった気持をほんのひとときでも抱かれたとすれば、却ってこうした作品のロマン(嘘話)の味わいが増し、ある切なさまでが心地よいものとして胸に浮かぶかもしれませんね。
 が、もちろん、それは、たかが小説一篇の感想であるに過ぎず、何も自分の存在意義をゆるがせるようなものではさらさらなく、われわれは己れの生活を大事にして堂々と胸を張って今日も明日も俗世を生きて行くわけですが、いや、だからこそ、われわれは、こうした作品をある上質の苦味として味わう“資格”があるのだ、というわけです。
 われわれはかくも心が寛く、こんな無法で愚かな、狂える人間の話にも、ある共感をさえ感じられるほど豊かな感情をもち、余裕のある生活を送っているのだ、と嬉しく思ってよいわけです。
 が、さらにまた、そう思った途端、どこかにちょっとやるせないような思いも湧いてきて、そばにいる人に「ねえ、あなた」と呼びかけてみたくなるかもしれませんね。が、はたしてその時、その人は、「何かあったのかい。じゃあ今日は一緒に外で食事でもしようか」などと言ってくれるでしょうか。なかなか、現実は厳しいかもしれません。そこで、『マディソン郡の橋』などというケシカラヌ小説が、何十万部も売れるという事態が生じたのでしょう(かつての男達にとっての『月と六ペンス』と同様に)。
 そして、そんな個々のご家庭の“問題”にふれてくる作品が、まさに次回とりあげる『道草』であります。
 妻には妻の、夫には夫の思いがあり、意地があり、砕け散った夢があり、癒えぬ傷口がある、といった日々の生活の話です。何とも辛気臭く、気が重いことしきりなのですが、これもまた、たかがショーセツ、読んで味わい、ああ、こんな世界も、私はわかるのだ、とご自分の豊かさ自体を楽しんで頂きたいと思っています。

    もちろん、お忘れなく。その場合も、一抹の苦味やかなしみがひそかにまぶされ得ることを。

 

 駄文失礼、よいお年を。