hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

願いと報酬

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  一流私学とはいっても、地方都市である。近県を含めた地元出身者が多く、親元を離れず、手堅く学び就職してこの地で生活する、という堅実な学生がほとんどだった。トップの国立大に対する対抗心を煽っても大方の手応えは弱く、特段の悔しさも自負も見せない。いわば、成績は悪くはないが無難な学生達である。そんな若者相手に長年文学の講義を担当した。いわゆる一般教育と専門科目である。一体、何を教えてきたのか。
    読んでおくべき作品を並べ、外国文学も含めて、比較検討させる。基礎知識を与えた上で、まずは本文を確実に読み取り、解釈して自分の意見を確認することを目指す。その過程で、本文各所について多様な読解や疑問を提示し、固定的な解釈や先入観を超える思考過程を、なるべく具体的に示して考えさせる、といったやり方である。試験は自由論述式一問選択、どんな意見でも、論理的思考あるいはすぐれて洞察的思考を記述していれば評価する。
    などと書けば至極順当に行ったようだが、実際には人間相手で毎回集団の雰囲気も変わり、自発的質問は稀で、近年はスマホ片手に黙々と座るのみ、中々活気溢れる場とはならない。
    もっとも、スマホ・ケータイは当授業では解禁。情報検索等、何でも自分で調べよ、と奨励。但し私語は厳禁、言いたいことがあったら大声で、とした。
    先日会った中年OBは、私が大分激しく挑発的に語っていたと証言。今更に我が身を顧みたが、本文音読を重視し実践してきたのはたしかで、随分熱を入れて読み上げ、問いかけてきたのだと思う。
    何より伝えたかったのは、読むことの喜びと考えることのスリル、いわば精神の高揚である。批評の緊迫、討論の白熱、それらを包み込んでなお冷めやらぬもの、すなわち十全な体験としての感動をこそ求めたのだ。
   果たしてそれは伝わったか。何らかの拠り所となって、若き日の読書体験が心の片隅に、触れれば声となるべきものとして、今もなおあることを……老教師の願いである。

「幸福とは、報酬などまるで求めていなかった者の所に、突然やってくる報酬である」(アラン)