hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

三島由紀夫「遠乗会」論 ―幻滅と優雅、ラディゲ・大岡昇平に比しつつ―

 青年期、私は三島文学を敬遠していた。理由は二つあったが、両者は相通じてもいた。第一に、当時私は大江健三郎に夢中になっていたので、三島を受け付けなかったのである。全作を読破したと嘯く三島愛好者が傍にいたことも私の反発を助長した。第二に、私には、三島の作品はいかにも整然と造形され終わった、いわば美術品のごときものに過ぎないと見えたのだ。神保町の古書店に三島の稀覯本が麗々しく飾られた光景を私は軽蔑していた。あんなガラスケースに収まった美本なんぞに、自分の今を託すことは到底できない、と力んでいたのだ。自決のニュースも、三島が勝手に自身の完成を目指した行為に過ぎぬだろう、文学のそれか生のそれかは知らぬが、と素通りしたのである。
 一方で、大江の文体創造の試みは私をとらえた。やっかいな閉塞感や屈折した心情を託しうる新たな声と思われたのだ。それに比べて、三島の世界はいかにも俗な既成社会の書割りの中で、あたかもそれらを悠々と超えうるかのように、観念に鎧われた自己陶酔者達が跋扈する舞台であり、作者のシナリオ通りに仕上げられたものに過ぎないと感じたのである。すなわち、作家が意図したとおりしか生まない作品は私には物足りなかったのだ。しかも、プロセニアムにはびっしりと世俗のもろもろが貼り付いていると見えたのである。
 つまりそれは、当時の私が小説というものを誤解していたということであり、愚かしくも迂闊な話なのだが、現在の私はこの通り三島に引かれ、論じようとさえしているのだ。しかし一方で、今もなおどこかにその頃の思いが潜んでいるとも感じるのである。それは、小説が本来有する俗性に対する反発である。ただし今は、世俗をこそ描くはずの小説が内包しうる俗性への違和、その抵抗から妥協、さらには敗北までを見とどけるには、他でもない三島文学こそが相応しいのではないか、と考えるに至ったのだ。

 「遠乗会」(1950 昭25/8『別冊文芸春秋』)は、まさに、かつての私にはとうてい受け入れられぬだろうはずの上出来の短編である。
 そこには、三島文学のいわば備品一式が並べられている。正しく必要範囲のひろがりを持たされた風景が置かれ、その前を、どこかで見たことがあるかと思わせるだけの個性を付与された人間達が動き廻る。さらには、彼らをねじ伏せ動かしていく必然なるものの力――プロットの歯車のような動きと、その噛み合わせの精粗が試されるのだ。
 観念による巧みな陶酔と苦い覚醒があり、さらに、一段奥へと招く別種の光源が目を射る場――それがまずは、私の三島短編のイメージである。そして、「遠乗会」は、まさにその上出来の一編なのだ。そのシンプルにしてなお奥行をもつ仕立ては、完成度と美しさをもってみごとである。
 それは、上流夫人の愚かしい思い込みと覚醒を描くのだが、むろんそこに誇張はありながらも、主人公・葛城夫人の人間像とそれを取り巻く世界の動きが如実にあらわれてくると感じさせるのだ。作者自身、「出来のよい」「純粋に軽騎兵的な作品」(1) として自選短編集に収めたことも納得できるのである。
 葛城夫人はそこで、まずは次のように提示される。

 《葛城夫人のやうな気持のきれいな母親に、こんな苦労を背負はせた正史(まさぶみ)はわるい息子である。》

 この書き出しは、直ちに三島の愛読したラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』(1924)の冒頭を想起させるだろう。

 《ドルジェル伯爵夫人の心のやうな心の動き方は、果して、時代おくれだらうか?》〔堀口大学訳、以下同じ〕

 共通するのは、両夫人の有する善良さである。『ドルジェル伯の舞踏会』では、いわくありげに疑問符を付して「清浄無垢な魂」(une ame pre)の「操作(はたらき)」が強調され、「遠乗会」では、「気持のきれいな母親」という素朴な断言が人目を引く。すなわち、双方ともに、そのナイーヴな心に対する関心をそそるのである。
 続いて『ドルジェル伯の舞踏会』では、伯爵夫人マオ(マアオ…堀口訳)について、マルチニーク島に移住した名家の歴史から始めて、ナポレオン妃ジェゼフィーヌとの関わりにもふれ、母の愛薄くとも植民地の島で「野生の蔦」のように成長し、美しさと才気を身につけ、十八歳で三十歳のドルジェル伯爵と結婚してパリに住むに至った経緯が述べられるのに対して、「遠乗会」では、直ちに葛城侍従職夫人の現在の気苦労、すなわち息子のしでかした不祥事とその処置云々が語られるのだ。それは、長編と短編ゆえのあり得る差異としても、伯爵夫人マオの心の実相がその後さんざん待たされたあげくおもむろに明かされるのに対して、葛城夫人の愚かしい心理は冒頭から即刻分析の対象となるのである。その上でなお、各々の主人公の心の動静に対して犀利な解釈を施そうとする点は同様であり、「遠乗会」は『ドルジェル伯の舞踏会』を意識した作品と見えるのである。
 さらに思い浮かぶのは、「遠乗会」と同じ年の一月から連載が開始された大岡昇平の『武蔵野夫人』(1950 昭25/1-9『群像』)である。『ドルジェル伯の舞踏会』の冒頭文を題辞として引き、まさにラディゲを意識しつつ、これもまたある清浄な魂の女の造形に挑んだ『武蔵野夫人』を、当然のことながら「遠乗会」の作者は十分に意識していたはずである。

 『武蔵野夫人』は、主人公・道子と他の人物達を詰問するかのごとく突き詰めていく。その激しさは、作者の人間性に対する怒りをあらわすかとまで見えるのだ。そのあげく、道子は破滅するに至るが、その滅びの様もまた強い凝視に晒されるのである。さらには、細部にもことごとしい解釈が付されているのだ。

 例えば、次のごとくである。………………

――『三島由紀夫研究』15 鼎書房 2015年3月刊