hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『仮面の告白』の〈ゆらめき〉――「盥(たらひ)のゆらめく光の縁」はなぜ「最初の記憶」ではないのか              『三島由紀夫研究』3 鼎書房

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   一 二様の声

 『仮面の告白』(一九四九昭24・7、河出書房)の中には二様の声が響いている。それは〈まだわからなかつた〉という声と、〈理解しはじめてゐた〉という声である。では、何が〈わからなかつた〉というのか? ――むろん〈異常性〉が、すなわち自分が「倒錯者」(第二章)であるということが、である。ここでは、現在の「私」が過去の己れの行状を〈異常性〉の有無について逐一検証し、さらに、その時々における自覚の度合いをも問題としながら語るのだ、と見えるのだ。いわば、それが『仮面の告白』における「告白」の基本的な姿勢であるかのように。すなわち、二様の声は、あたかも「告白」と称する路線に沿って立てられた信号灯のように明滅を繰り返すもの、と見えるのである。
 さらにそこでは、〈今のままではいけないのか〉という「百万遍問ひ返された問」(第二章)までもが聞こえてくる。

  どうしてこのままではいけないのか? 少年時代このかた何百遍問ひかけたかしれない問ひが又口もとに昇つて来た。何だつてすべてを壊し、すべてを移ろはせ、すべてを流転の中へ委(ゆだ)ねねばならぬといふ変梃(へんてこ)な義務がわれわれ一同に課せられてゐるのであらう。こんな不快きはまる義務が世にいはゆる「生」なのであらうか?(第三章)

 いったい誰が、この愚かしくもまっとうな問いに答えられるだろうか。〈このままではいけないのか〉とは、また万人の思いでもある。なぜ、われわれは移ろわねばならぬのか――。
 むろん、現身(うつそみ)自体が移ろいであり、移ろうことこそが「生」なのだ、とわれわれは知っている。知った上でなお、の思いであるのだ。少年にとってそれは容易に悲憤慷慨に変じるものだろう。ただし、たとえ「変梃(へんてこ)」であってもそれを「義務」と受けとめるところに、「私」の生真面目さ、初々しさがのぞいているのだ。だが、彼とても、すでに「人生から出発の催促をうけてゐる」(第二章)身なのだという。しかし、いったい何処に? また、何に向かって?
 さらに、「私」にとってそれは、なぜこのまま――〈異常〉であってはいけないのか、と迫る問いでもあったのである。「百万遍」とは、まさに自身の〈異常〉との直面の夥しさの指標であったはずだ。ただし、それは、なお〈まだわからなかつた〉という時点での〈異常〉であったとすれば〈己れを知らぬ倒錯者〉であり、それこそが作中に描かれようとした画題となるのである。

   しかし私にはまだわからなかつた。何だつて数あるアンデルセン童話のなかから、あの「薔薇の妖精」の、恋人が記念(かたみ)にくれた薔薇に接吻してゐるところを大きなナイフで悪党に刺し殺され首を斬られる美しい若者だけが、心に深く影を落すのかを。なぜ多くのワイルドの童話のなかで、「漁夫と人魚」の、人魚を抱き緊(し)めたまま浜辺に打ち上げられる若い漁夫の亡骸(なきがら)だけが私を魅するのかを。(第一章)

 幼年時からのこうした疑問――予感に満ちた無自覚、あるいは、未来へと向かう不安や恐れの感覚は、決して「倒錯者」だけのものではない。〈正常〉な性欲のはたらきもまた、少年期には理解をこえた衝動であり、まさに〈わからない〉こととしてあらわれるからだ。ただし、それらは多くの場合、早々と忘却され、アドレッセンスの彼方に置き去りにされてしまう。ところがここでは、“基本方針”どおりに過去の徴候があらいざらい調査され、判別されようとしていると見えるのだ。
 己れを顧み、その性的嗜好に対する自覚の程度を検証するために、少年期から青年期におけるさまざまな体験を、「私は知らなかつたのだ」(第三章)、「私には結局何一つわかつてゐなかつた」(同前)、「私にはまるでわからなかつた」(同前)などと呪文のごとく繰り返しつつたどって行く、回顧者の執拗な動きが読み手をとらえるだろう。〈まだわからなかつた〉というからには〈やがてわかる〉ことを予感させ、〈覚醒〉への期待とともに、切迫感やもどかしさをも喚起するのだ。ただし、「読者」(第三章)と作中から呼びかけられてもいるわれわれは、〈覚醒〉を予感し恐れる「私」の傍らにあって、もっぱら、切迫感に裏打ちされたスリルとサスペンスの美味をも味うこともできるのである。
 一方で、そこには自覚の動きもあらわれてくる。

   心に染まぬ演技がはじまつた。人の目に私の演技と映るものが私にとつては本質に還らうといふ要求の表はれであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるといふメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめてゐた。(第一章)

 冒頭に近くまだ「おぼろげ」な自覚の萌芽に過ぎないが、自己に対する感受性が研ぎ澄まされていく過程を示すくだりである。やがてそれは、「私は自分に女を惹きつけるやうな特徴が一向にないことがわかつて来てゐた」(第三章)という認識となり、さらに、園子との接吻の最中「何の快感もない。二秒経つた。同じである。三秒経つた。――私には凡てがわかつた」(同前)と自覚され、園子との間で「凡てが終つたことが私にはわかつてゐた」(同前)との確認を経て、ついには、娼婦を相手に「十分後に不可能が確定した。恥ぢが私の膝をわななかせた」(第四章)という痛切な了解に至ったというのだ。他者の前で〈不能〉が露呈したその日以来、「私」は「『お前は人間ではないのだ。お前は人交はりのならない身だ。お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ』」(同前)と宣告されたとまで感じるのである。こうした〈覚醒〉の苦痛や無残さも、また読み手をとらえるだろう。
 すなわち、ここでは〈無自覚〉はかならずしも無知ではなく、同様に〈理解〉も全き了解ではない。両者の入りまじった、見極めがたい(あるいは、見極めたがらぬ)心のあり方があるのである。といって、それは別に特異なものではない。何か大事を予感し気づき始める際のもどかしさや不安は、日頃われわれに近しいのである。ただし、作中ではくりかえし「不安」(第一~三章)が語られ、強調されている。「私の成長感はいつも異様な鋭い不安を伴つた」(第二章)あるいは「人間の根本的な条件に関する私の不安」(第三章)等々、畢竟これは〈異常〉よりも〈不安〉を語る物語だったのではないか、と思わせられるほどなのだ。
 「私」は〈不安〉とともにひたすら〈覚醒〉を恐れている。だが、注目すべきは、そこで〈覚醒〉がおいそれとはやって来ないことだろう。園子とのことで〈私には凡てがわかつた〉というのは第三章の後半であり、娼婦の前で〈不可能が確定した〉のはさらに最後の第四章に入ってからなのである。それまでの「私」は、強烈な不安をいだきつつも、なお女との間で自分にはまだ可能性があるのではと思って逡巡し、〈覚醒〉を恐れる青年として語られているのだ。
 『オイディプス王』の典型を持ち出すまでもなく、〈恐るべき己れ〉に直面するドラマにおいて原動力となるのは、知ることへの〈おそれ〉と〈希求〉との葛藤であり、周囲にはびこる予兆や不安の動きである。〈おそれ〉の強烈さによって真実の深刻さもはかられ、また〈希求〉の強さによって〈おそれ〉も倍加し、やがて来るアナグノリシス(再認・発見)が悲劇としてたかまるのだ。いかにも、ドラマとは観客を待たせるものであり、われわれはそこで砂糖が溶けるのを待たなければならないのである。あらわれるのは、他ならぬ〈あげくの果て〉のアナグノリシスなのだ。
 『オイディプス王』の、宣告された運命から逃れようとした〈あげくの果て〉の行状と比べれば、『仮面の告白』の真実など、それを知ることで人生のすべてを失い、自ら両眼を突いてさまよい出るほどのカタストロフをもたらすものでは決してない(はずだ)。それがここでは、もし世の人々に知られた場合には、業病のように忌み嫌われ、「倒錯者」として排斥されるであろう重大事として語られているのだ。〈不安〉の強調も、そこでこそ意味をもってくると見えるのである。
 それは、相異なる性的傾向について〈正常対異常〉の峻別による根強い偏見や差別があった時代の話である(今の時代がどうであるかはむろん別問題であるが)。「私」は、そのような時代の中で、自己の性的嗜好が同性の友人たちと異なることに徐々に気づき、ついにはそれが「倒錯者」のそれであり、自分は「ソドムの男」――「男色家」(第四章)なのだ、と痛烈に自覚するに至る。すなわち、それは、みずからの〈異常〉の認識をかかえ、それを人に知られることを極度に恐れ、つよい〈不安〉にさいなまれつつ生きる男の話とされているのだ。現に、作中には「私」の〈異常〉を示唆する徴候がふんだんに並べられていくのである。
 むろんそこには、たんに時代によるものだけでなく、作者による脚色や操作も推測できよう。佐藤秀明は、最新の作家情報に基づいた評伝、『三島由紀夫ー人と文学』(1)の中で、「福島次郎と堂本正樹の著書によって、三島由紀夫に同性愛の傾向の強いことががはっきりした。むろん、それは異性愛者であることと矛盾しない」と述べ、『仮面の告白』執筆時には三島がすでに同性愛者達と接していたことを伝えている。それに対して作中の「私」は、〈まだ〉そんな世界のあることには思いも及ばず、八方ふさがりの孤独のただ中に閉じ込められたまま、とされているのだ。

   二 「盥(たらひ)のゆらめく光の縁」

 だが、それでは、冒頭のエピソードはどうなるのか。それもまた〈異常〉の徴候の一つなのか。

   永いあひだ、私は自分が生まれたときの光景を見たことがあると言ひ張つてゐた。それを言ひ出すたびに大人たちは笑ひ、しまひには自分がからかはれてゐるのかと思つて、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。それがたまたま馴染(なじみ)の浅い客の前で言ひ出されたりすると、白痴と思はれかねないことを心配した祖母は険ある声でさへぎつて、むかうへ行つて遊んでおいでと言つた。〔中略〕
   どう説き聞かされても、また、どう笑ひ去られても、私には自分の生まれた光景を見たといふ体験が信じられるばかりだつた。(第一章)(2)

 このいかにも特別な「体験」として語られたものはいったい何か。幼い「私」はここで、「科学的な説明」でも「説き伏せ」られず、「笑ふ大人」の反感にも堪え、さらには「午後九時に私は生まれた」という事実からくる「反駁」にまで立ち向かおうとするのだ。

  では電燈の光りだつたのか、さうからかはれても、私はいかに夜中だらうとその盥の一箇所にだけは日光が射してゐなかつたでもあるまいと考へる背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入ることができた。そして盥のゆらめく光←光り の縁は、何度となく、たしかに私の見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳(えうえい)した。(同前)

 ここには、己れの原初に向きあおうとする者の、姿勢の定まりがある。その「記憶」には、自己の〈はじまり〉を見出すことの自然さやのびやかさがただよい、世界に向けて見開かれたばかりの目が光っているのだ。では、はたしてそれは「倒錯者」のものか。否である。そこではまだ〈正常対異常〉は問題とならず、すべては美しく、完全で、かつ、空虚なままなのである。
 たしかに「一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思はれないところがあつた」という光景は美しく、啓示そのものと見える。「木肌がまばゆく、黄金(きん)でできてゐるやうにみえ」、「ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐(な)めるかとみえて届か」ず、下方で水は「なごやかに照り映えて、小さな光る波同志がたえず鉢合せをしてゐるやうにみえた」という。まさしく、それは世界の顕現として、作品劈頭に置かれているのだ。
 この「盥のゆらめく光の縁」を見つめる目、そしてそれを「記憶」していると主張する幼い「私」、さらには現在の「私」によるそれらの回想が、『仮面の告白』の〈はじまり〉を成している。それは、「私」にとっての世界の〈はじまり〉であると同時に、また「私」自身の〈はじまり〉に他ならない。見続けるとすべてが溶け出してしまうような光景であり、〈まだ〉か〈もう〉か、というあの弁別の声を無化してしまうような場なのだ。
 しかし、この〈原初の記憶〉とそれへのこだわりは、須臾(しゅゆ)にして消え去り、作中で二度と語られることはないのである。たとえばそれを、『暗夜行路』の「序詞」と比べてみればどうか。印象のつよさや美しさでは並びうるとしても、量的な差はもちろん、意味付けにおいても違いがあるだろう。すなわち、『仮面の告白』の冒頭にあるのは、ただ光を見つめる目とそれをたしかに見たと主張する姿勢だけで、読み手にとってそれ以上の意味付けの手がかりはないのだ。それに対し、後の「最初の記憶」にある、松旭斎天勝の真似をしたとき母の顔に気づいたという話ならば、まさに『暗夜行路』「序詞」の母の記憶とも通じて、了解され、共感もされうるのである。
 あるいはまた、『道草』には、幼い健三が池の中に引きこまれそうになって、思わず釣竿を投げ出す場面の回想がある。ともに原初的で、存在論的な奥行きをもった挿話であるが、『仮面の告白』の「生まれた光景」の「記憶」には、怖れはもちろん驚きさえも記されてはいないのだ。いわば、作品自体がそれに無頓着であるかのように見えるのである。あたかも、頭上に気まぐれにあしらわれた羽飾りでもあるかのように。だがむしろ、かくも印象的な原初的記憶が、何ら見やすい小説的意味付けをこうむらずに放置されていること自体、また格別のこととも思えるのである。意味付けの唯一の手がかりは、その光景が何度となく「記憶のなかに揺曳した」と記されている点である。ただし、どのように「揺曳した」のかはその後も語られることがないのだ。
 またここでは、そのそっけなさのゆえか、回想が一瞬つまづいたかと思われる動きを見せていることに注意しよう。次の一文である。

   最初の記憶、ふしぎな確たる影像で私を思ひ悩ます記憶が、そのあたりではじまつた。(第一章)

 これはいったい何をさすのか。「そのあたり」とは何であり、「最初の記憶」とは何か。むろん、先を読めばわかってくる。「最初の記憶」とは、続けて語られる「糞尿汲取人」を筆頭とする者たちとの遭遇であり、「そのあたり」とは「五歳」の頃を指している。しかし、前後ともに一行空けで示されたこの一文を目にして、読み手は一瞬、今読んだばかりの「盥のゆらめく光」こそが「最初の記憶」であり、それが「五歳」の頃からつよく意識されたのだ、とは解さないだろうか。「思ひ悩ます記憶」とは、非科学的な出生時の記憶が「確たる影像」として忘れられず「大人たち」との間で「私」を悩ましたことをいうともとれるのだ。また、ちょうどこの辺りで冒頭の「記憶」に対する言及があってもよいだろう、といった読み手の予期もありうるはずである。
 では、なぜ、冒頭の「自分の生まれた光景」の「記憶」を「最初の記憶」としなかったのか。それが取るに足らぬものであるからか、あるいはたんなる幼児期の思い込みや、一途さをいうだけの話としようとしたからか。まずは、あまりに非現実的で「記憶」とするのも怪しいということがあろう。現に作中では、「私」みずから、「おそらくはその場に居合わせた人が私に話してきかせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちらかだつた」といった、いたって常識的な判断を述べているのだ。しかし、幼い「私」自身がそれを実際の「記憶」と信じていたのであれば、その意味で、まさにそれは「最初の記憶」とするにふさわしいはずだ、ともいえるのである。さらに、幼少年期の「私」の固執も際立っているとすれば、それこそ特別の「記憶」となったはずだろう。ということは、それがどのようなかたちであれ、際立つこと自体が避けられたのだ、と考えるべきではないだろうか。
 だが、また逆に、排除されることで際立つということもあるのだ。冒頭に提示された心象風景は、その後につづく〈異常〉な告白とは異なる、安らかな美や快感をあらわしている(3)。すなわち、後につづく「最初の記憶」が強烈で意味ありげであるのに対して、冒頭の「生まれた光景」の記憶は、それ自体どう解釈しようもないほどの平明な姿として置かれているのだ。まさにプロローグとしては効果的で際立った部分といえるだろう。
 ここでしばし、さらにこだわって考えてみれば、あるいは「生まれた光景」を「最初の記憶」に入れることも可能となるかもしれない(4)。すなわち、そこにいう「ふしぎな確たる影像で私を思ひ悩ます記憶」には、「生まれた光景」も「糞尿汲取人」以下もすべてが入る、という解釈である。「生まれた光景」を排除している理由と思わせるのは、それが具体的に「最初の記憶」と名指されていない(弁別されていない)ということと、次の「糞尿汲取人」については「これこそ私の半生を悩まし脅かしつづけたものの、最初の記念の影像であつた」という際立った表示がされているためである。だが、後者については、それはあくまで「半生を悩まし脅かし」た種類の「最初の記憶」であって、それ以外の「最初の記憶」がありえないとはいってないのだ、と見ることも可能である。
 そのように考えれば、「生まれた光景」の記憶は全く排除されている、と断言することは難しくなるだろう。だが、その場合でも、前述したように、冒頭を過ぎた途端に言及が滞ることを考えてみれば、別格の“すでにお蔵入りした思い出”といった扱いを受けている、とも見えるのである。
 とまれ、私の場合は、冒頭の記憶が「最初の記憶」から漏れると知って、その後の「最初の記憶」がどうにもおさまりの悪いもののように感じられたのだ。すなわち、「糞尿汲取人」「オルレアンの少女」「兵士の汗の匂ひ」「松旭斎天勝」「クレオパトラ」「殺される王子たち」と列記される「最初の記憶」の連鎖が、絢爛たるイメージではあるが、いかにも強引なもののように見えたのである。いわば、小説『仮面の告白』が回想から告白へと一挙に移ろうとして、あたかもスイッチが押されたかのように〈欲望の自覚〉というモチーフが出現したように感じたのだ。
 「最初の記憶」はこうして〈欲望の自覚〉へとつながり、〈欲望の自覚〉は、さらに「三つの前提」として巧みに整序されていくわけである。「糞尿汲取人」から始まる「最初の記憶」の提示はいかにも強烈であり、「ひりつくような或る種の欲望のたかまり」の感触は、われわれにも伝染してくるかのようだ。ただし、その彩色のつよさ、またつづけて「悲劇的」と何度も繰り返される言挙げが、冒頭の澄明な光に満ちた光景の〈黙示〉のつぎにあらわれることに、あらためて注意すべきだろう。あらゆる事象に対し発言を絶やさぬ語りが、冒頭部に対しては寡黙なのも、また印象的である。
 だが、言及や意味付けの欠如が、むしろその根源性をあらわにする場合もある。冒頭部で光の下にゆれる産湯には、胎内を満たす羊水のイメージを見ることも可能だろう。いずれにせよ、そこでは、すべては調和とゆらめきの中にあってたゆたい、なま温かい水が安らかなものとして「私」を包んでいるのだ。すでに、物語のはじめには安逸なる〈救い〉がおかれていたのだ、とも見えるのである。
 しかし、そもそも美は救いたりうるのか。それに対しては、エピグラフの『カラマーゾフの兄弟』が足枷ともなりかねないだろう。ただし、この冒頭のイメージはまだ美でさえもなく、ただただすべての〈はじまり〉なのだ、と見なおしてみればどうか。
 だが、さらに考えを進める前に、ここでしばし作中を見なおしておこう。…………………………

――細谷博「『仮面の告白』の〈ゆらめき〉」『三島由紀夫研究』3 鼎書房 2006/12