hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

自己像としての過去ー『道草』

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《兄は過去の人であった。華美(はなやか)な前途はもう彼の前に横(よこた)わっていなかった。何かに付けて後(うしろ)を振り返りがちな彼と対坐(たいざ)している健三は、自分の進んで行くべき生活の方向から逆に引き戻されるような気がした。
「淋(さむ)しいな」
 健三は兄の道伴(みちづれ)になるには余りに未来の希望を多く持ち過ぎた。そのくせ現在の彼もかなりに淋(さむ)しいものに違なかった。その現在から順に推した未来の、当然淋しかるべき事も彼にはよく解っていた。》

    『道草』の「三十七」の書き出しである。主人公の健三はまだ三十代後半だが、元養父の出現によって、自分と親族の過去へと思いを巡らせるようになる。
    健三は、衰えた体で辛い役所勤めを続けるしかない兄を「過去の人」と断じ、自分には「未来の希望」が多くあることを思う。しかし、同時に彼は、兄の現在を「淋(さむ)しい」ものと感じるだけではなく、現在の自分も、そしてさらには、未来の自分をも「淋(さむ)しいもの」として感じるのだ。
    肉親との関係は人により場合によってそれこそ千差万別であるが、肉親や縁故者と自分の間の、折々のつながりとへだたりの感得は、切実な愛憎ややりきれなさ等々を伴って、時に人を強く動かすものとなる。そして、その心の動揺のただ中から、あらためて〈自己像〉の契機としての〈過去〉が現れて来るのである。
    そうした、〈自己像としての過去〉の出現を、いかにも落ち着いた緩徐ともいえる叙述の流れの中で、たしかな手応えを持った鮮やかな奔流として描こうとしたのが、漱石最後の完成作となった『道草』なのである。