hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

意識の場としての日常

photo by olsen_olsen

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後に引いたのは、昨年6月に書いたものです。

要するに、村上春樹に共感してしまう我々は、意識というものを甘く見すぎているのではないか、と言いたかったわけです。そこで私は、「日常」を描いたすぐれた小説として、漱石の『明暗』を持ち出していますが、いまはさらに藤村の『家』をはじめとする小説に注目すべきでは、と思っています。

生の日常という、我々がいやというほど経験し、なお汲み尽くせない喜怒哀楽の現場を、言葉のかたちによって表現する、それこそが小説の眼目であり、藤村文学の魅力ではないか、と考えるからです。

 

早稲田の入学式で村上春樹が話した内容を見て、ああ又かと少々がっかりしました。村上は、人間の意識は心という池からくみ上げられた一杯の水に過ぎず、残りは手つかずで未知の領域と言いますが、本当でしょうか。「バケツ一杯の水」の方が実ははるかに難物で、またかけがえのないものではないのか。

村上春樹の長編は未知の領域を異様なものとして色付けようとするあくまでも意識的な作業と、私には見えます。彼は未知の心を探る役割を「物語」が果たしてくれると言いますが、村上の「物語」は非日常の異常とされた世界が知的に構築されたもので、その短編に比べて陳腐なものとさえ見えてくるのです。

しかし、本当に未知の世界につながっているのは、むしろ我々の日常ではないのか、日常を描き、あらたに見出すこと、それこそが小説の願望であり、アポリアではなかったか。

漱石の遺作『明暗』はそのすぐれた達成でした。その上で、『明暗』が未完に終ったことを、私はむしろかけがえのないことと思っています。その理由はまた別稿で。