hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

眠れぬ夜は

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ついスマホに手が伸びてしまうのだ。
以前はそのiPhoneで早目の読み上げ機能にてKindle本等聴いていたのが、その後、TwitterFacebookSNSを始め、つい気がつけば何がなし書いているようになってしまった。
さすがに全てはUPせずとも、常に発表を意識してのタッチ入力。中でも字数制限無し、ブログの如き手間も不要のFBは、性に合ったかに感じる次第。
但し、私にとってそれらはあくまで意識的な表現の場、人はどう受け止めようと、私はある公的な場として考えている。写真図像も入れるのだが、見るのではなく読んで欲しいとの思いまさり、そのためにこそ相応しい、又意外なる取り合わせとしてのつもりなのだ。いわば、稿料無しのフリー雑誌掲載、はた掲示板としての利用とでもいうべきか。
もちろん、そこでは知己を求めてもいるわけである。今まで書いて来たものは、例外を除いて、殆どがいわゆる同じ業界内の反応しか得られず、もう先が見えて来た今、本来望んでいた「文壇の裏通りも覗いた経験」のない「尋常なる士人」を相手に書きたいと切に願っているのだ。
が、いかんせん身の丈三寸相応のものしか書けぬのは明白にて、何を力んでへのへのもへじ、かくも多くが楽しみ語らう同窓会的場内に、老残案山子のなり晒すのかとの自嘲も止まぬ。
かつてもコンピュー・サーブだったか、いわゆるコンピュータ通信とやらをやったことあり。またインターネット草創期のビットネットにも手を出したことも。米人といわゆるチャット中、当方のもどかしき英語に、突如Are you a girl? と尋ねられ、No. と答えたその途端プツンと切られた経験から、ああこれは分身ー今言うアバターを作れる世界、否、別人格になれてしまう場でもあるな、とゾッとするほど悟ったことも。が、それこそ匿名のお遊び的なコンピュー・サーブ等にはそのうち飽きてしまったのだ。
しかし、この実名のFBには、いわば濃厚な現実感があり、そこでは実際の対面ともいえる邂逅があるのでは、とも感じさせられたのである。が、見回せば花も紅葉も……もともとの知友が、何を見た、何を食べたの知らせ合い、励まし合いの場にて、やはりどうも違和感、孤立感募るばかりとなったのだ。
そんな中、まだごく少ない人数ではあるが、見事意識的な書き手との出会いもあった。中でもある五十代は、まさに浩瀚な読書量、それも仕事ゆえでも何でもなく、いわば純粋なる好奇心にて和洋の書を読み広げ、かつ、驚くべき正確な理解と記憶力を持ってFBに書いているのだと知ったのである。
が、私にとってさらに意外であったのは、その男性が、それだけの身についた知識と表現力を持ちつつも、いわゆる発表舞台としての文壇を全く考えていないと見えることだった。かといって、彼の書くものは近況報告には収まらぬ決して分かりやすいとはいえぬしろものなのだ。それはまず知識が必要、緻密な読解力も要求される類である。
想像通り、そのコメントとやらを見ていくと、ほとんどは皮層の感想挨拶だったが、何と彼は的外れの頓珍漢な愚問にも丁寧に答えていると見えたのだ。
もし、私が彼ならばとてもそんな芸当は出来ぬだろう。自作を理解する者無しと知れば、手も動かずになるだろう。が、何と彼曰く、公開日記的使い方、読んだ本の感想をいわはセルフ・セラピーとして書いているのだ、と。
私から見て、それまで、その書きものはそうは全く見えずにいたのだ。三島を始め蓮田善明等私の大の苦手な、本気で危険たらんとするかの面々の思索表現のただ中に、しっかりとそれらを身に佩したかの如く書き及んでいると見えたのである。恐るべしだったのだ。
が、確かに、そう言われてつらつら見直してみれば、その才気もて認められた文章には、何がが足りない、あるいは何かなど必要としない、いわば軽いフットワークのごときものが備わっていると、気づいたのだ。
今、私は、迷っているとしておこう、
この巨大な同窓会的テルマエで、なおもタオルで自ら前を隠しつつ、貧弱な図体を晒すのか、はた出来はせぬとは思いつつ、何食った、何愛でた、の洪水の中、横丁のご隠居的にニコニコと浸かり続けているべきか、それとも彼のごときフットワークで語り來て語り去らんと心得るべきか。あるいは、なおも指まかせ、かくの如きの評言を連ねて行って終るのか、等々。
今回上京、その御仁とも、とは思えど、体力気力共に失せ、会わずに帰名、と決めた次第。
それでなくとも、このテルマエ・エスエヌエセ中にて、さても我が身を如何せんと迷いつつ、また、我知己得たりしかと密かに喜びもしつつ……。
誰にとも無しに、眠れぬままに認め了る。

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