hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

三島由紀夫の予言の毒

三島由紀夫の「無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が」残るとの予言が、むしろ楽観的だったと気付くほどの事態が―「日本」がなくなるか否かの心配など悠長と思えるほどの未来が―来ることなかれ、と祈る。

むしろ危機にあってこそ、この、今は日本と呼ばれる域圏の、古層から染み付いた、何とも脱しようのないありようとしての文化が滲み出て来るのだろう。積み重なった死者達の上に立つ我々の今ここに。

豊饒の海』全四巻は、巻頭に置かれた日露戦「得利寺附近の戦死者の弔祭写真」の示す膨大な死者のイメージによってこそ支えられ、意味を持ち得ているのではないか。
しかしそれは、三島の説く遥か彼方に神格の存在を必要とする死者達などではなく、ただひたすら死を死んだ死者達としてこそ見えて来るのだ。

「無機質な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国」―それこそ、我々が作った国でもある。

抜け目のない我々自身の姿だ。
三島の呪いは選良には警告と聞こえるが、毒はさらに深いかもしれない。

だが、「有機質の、濃密な、傾きをもった、滲んだ色めの、貧窮した、愚かしい、歴史まみれの文化国家」もまた、御免被りたい。

むろん、そんな評定など誰にも不可能なのは自明である。
生活に困らぬ我々が望み、余剰として選び取る文化など何ほどのものか。

生き死にの場としての今ここにつながるものが、我々をとりまいているのだ、ひたすらに。