hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

三島由紀夫VS東大全共闘 ーー目の中に不安の色を

三島由紀夫全共闘の学生を前に『テレーズ・デスケイルゥ』を引き合いに出して「諸君も体制の目の中に不安を見たいに違いない」と言ったが、今回『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』で三島の発言場面を見ることができた。

 モーリアック『テレーズ・デスケイルゥ』の主人公テレーズは田舎町の地主の妻だが、夫の俗人振りに嫌気がさして、夫に常用薬の砒素を過剰に盛ってしまう。その動機は何か。

――私はあなたに「なぜあんなことをしたのか自分でもわかりません」と答えようとしていました。しかし、いまでは、どうやら、そのわけがわかりましたわ、ほんとに! あなたの目の中に、不安の色を、好奇心を見たいためだったかもしれないわ、――つまりあなたの心の動揺をね、ちょっと前から私があなたの目の中に発見しているものをね。(杉捷夫訳)

 事件は、予審で免訴となったテレーズの回想によって描かれているが、小説の末尾、パリ街頭のカフェでテレーズは夫に向かってこう告げるのだ。
 いかにも人を食った、反省のかけらもない挑発的な物言いである。この恐るべき妻は、夫の目に「不安の色」を見たいという願いが、たった今みごと成就したのだと豪語するのだ。カフェの片隅での無残な会話の後、怒った夫は去り、テレーズが一人残されて小説は終わる。何とも後味の悪い、かつ胸に響く作品である。

 一方、東大駒場の900番教室に立った三島は、全共闘学生らとの「討論会」の冒頭スピーチで、このテレーズの言葉を引いたのだ。安田講堂籠城に敗れたとはいえ、いまだ血気盛んな若者たちを前に、強烈かつ無力な女の恨み言を引き合いに出すとは、いかにも作家らしいウィットある発言である。さらに三島は、自分も権力の目の中に「不安」を見たいのだ、と続ける。その後で、学生たちとの「討論」を始めるのだ。

 50年余を経て録画を見た私は、今さらのことながら、学生たちに若さを感じ、また、三島その人の姿にも若さに対峙しようとする者の若さを感じた。それは感嘆と苦笑とを惹起するものだった。

 では、学生らの望みだったと三島の言う、体制における「不安」の惹起は成功したのか。その場での三島の報告によればそれは失敗であり、また、後に起きた三島自身の事件によってもそれは失敗だったようである。
 では、「不安」――動揺はどこにも起こらなかったのか。

 こうした映像が、Amazonの巨大市場に宙吊りになって閲覧され、興味や懐旧の対象となって拡散していく今、当時の若者でありその後社会の各所で生き継いできたはずの「団塊世代」や、それに続く「新人類」等々の各世代を含む諸々の人々による時代の動きの中で、一体何が起こり、何が起こらなかったのか。

 むろん、全てを見ることは困難である。個々の心中を知ることはさらに。
 たぶん、そうした掴みようのない未来の到来をこそ、我々は今感じているのだろう。そしてまた、それは全てを押し流していく時代の常態に他ならないとも、痛感しているのである。

 動揺は、嫌悪すべき夫の眼中のみならず、妻の側にこそ深く巣くっていたのではないか。