hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『愛の渇き』の〈はじまり〉――テレーズと悦子、末造と弥吉、メディア、ミホ             『三島由紀夫研究』1 鼎書房

 〈おわり〉は〈はじまり〉を知るが、〈はじまり〉は〈おわり〉を知らない。〈はじまり〉は〈おわり〉の出現によってつねに凌駕されるが、〈おわり〉にとって〈はじまり〉はなお不可欠の淵源である。〈はじまり〉の悪遺伝をかこつ者も、〈おわり〉の蛇尾に歯がみする者も、ひとしく前者から後者へと向かう流れの中にあるのだ。そして、それこそが生の方向だと思い知った者は、滔々たる流れに抗して、過去を想起し、未来に問いかけ、あわよくば流れを変えようとする企てをやめない。あるいは、生の時々において、逆らわんとしつつもなお流されつづける己れを見出すのだ。
 小説中の〈はじまり〉と〈おわり〉は、むろんたくらまれ仕立てられたものである。そこでは、〈はじまり〉も〈おわり〉も見通し得るものとなり、作者による流れの中断さえもが可能となる。しかし、われわれ読者がそこで欲するのは、決してこの世離れした因果の倒立ではない。依然として、あの不断の流れとそれに向かう人間たちのあらがいであり、陸続と継起する事物、とりわけ事件であり、ドラマ(劇的葛藤)なのだ。
 とはいえ、この特別仕立ての限定された世界では、区画されるのはどの地域か、〈はじまり〉と〈おわり〉は事件のどの範囲にまで及び、その間にいかなる動線が引かれ、どのような図柄があらわれるのか、等々が何よりの関心事となるだろう。ところで、いま私は「事件の」と書いたが、読み手は、あたかも小説中の言葉の向こうに〈何か〉があるかのように読むだけだとすれば、「事件」といえども読みとりの最中にしばしの間あらわれるイメージに過ぎず、そこでは、誘導され促されつつも想い描くわれわれ自身が、また〈つくる〉者となるのだ。すなわち、読むとは、小説というあらかじめ限定された所与を〈はじまり〉から〈おわり〉へ向かうものとして受容しつつ、なお、みずからもそれを〈動かす〉ことなのである。

   1 テレーズと悦子

 テレーズ・デスケイルゥは、まさに事件を想起し、過去を問う者として出現する。一方、杉本悦子は、「姙婦のような歩き方」で、事件へと向かってひたすら歩む者と見える。なぜなら、前者にとっては事件が〈はじまり〉となり、後者では事件が〈おわり〉となっているからである。
 モーリヤックの『テレーズ・デスケイルゥ』(一九二七)冒頭では、事件はすでに終わり、予審もたった今終了したばかりである。弁護士とテレーズが裁判所の裏口から出て、テレーズの父・ラロックに「免訴」の決定を伝えるところから、作中世界がいわくありげに動き出すのだ。
 では、そもそも彼女にとって事件の〈はじまり〉とは何だったのか。それは、“大先輩”エンマ・ボヴァリーの場合にも似た、夫や結婚生活に対する月並みな幻滅だろうか、あるいは、父祖の地アルジュルーズの地所や松林に対する執着か――。だが、何よりここで明確な〈はじまり〉は、実際にテレーズが夫に砒素を盛ったという行為にあったはずだ。たんなる幻滅や嫌悪をこえた“犯行”の着手、それこそが事態を動かしたことは間違いない。ゆえにこそ起こった裁判騒ぎであり、夫の許への帰還、そして決定的な別居へとつづくのである。
 テレーズは、アルジュルーズへと帰る途上、蜿蜒と自問を続け、ついに小説の末尾、パリで、夫・ベルナールに向かってその“名高い”台詞を吐くに至る(三島由紀夫全共闘の学生を前にして、「諸君のもとめているのは体制の目のなかにこの不安の色を見ることだろう」と言い放ったというそれである)。

  ――私はあなたに「なぜあんなことをしたのか自分でもわかりません」と答えようとしていました。しかし、いまでは、どうやら、そのわけがわかりましたわ、ほんとに! あなたの目の中に、不安の色を、好奇心を見たいためだったかもしれないわ、――つまりあなたの心の動揺をね、ちょっと前から私があなたの目の中に発見しているものをね。(杉捷夫訳、新潮文庫、以下同様)

 この妻のただ一度の“犯罪動機の説明”は、夫の「声をあららげ」させるに充分だった。いかにも人を食った、反省のかけらもない挑発的な物言いと聞こえるだろう。それは、夫の目に「不安の色」を見たいという願いが、たった今みごと成就したのだ、と豪語するのである。カフェの片隅で、田舎出の夫婦の間に愚かしくもにがい会話が交わされた後で、テレーズは一人取り残される。『テレーズ・デスケイルゥ』という仕立てられた世界の〈おわり〉は、このようにしてやって来るのである。
 むろん、テレーズの犯行自体にも〈はじまり〉と〈おわり〉があった。松林の火事騒動にまぎれて、夫が倍量の砒素を服用したことを黙過した時、彼女の心中で密かに発火し、後日、夫がくり返し発症した時点でかろうじてやんだ行為がそれである。それは、発覚し、告訴され、ついに免訴となった後、本人自身によって問い直され、反芻されるかたちで、読者の前におもむろに現れるのだ。
 一方、三島由紀夫の『愛の渇き』(一九五〇昭25・6、新潮社)ではどうか。悦子の場合も、事の起こりは見方によってまちまちだろう。それは、夫・良輔の浮気に対する嫉妬とも、良輔の急病死とも、また、舅・弥吉の愛人となったこととも考えられ、使用人・三郎への恋慕、加えて女中・美代への嫉妬も考えられる。だが、そもそも夫の浮気と死とがなければ、さらには、悦子の烈しい嫉妬と執着がなければ、あれほどの犯行もなかったはずと見えるのだ。悦子自身も、まだ事件には至らぬ時点で、かつての夫との苦悩の日々と、米殿村(まいでんむら)到着から今日までを想起し、問いかけている。すなわち、悦子もまた淵源を見ようとしているのである。
 ただし、ここで〈はじまり〉をたんに心理的な要因でなく、小説世界の現象の発端とその顕現を指すものとすれば、悦子の場合、それはただちに小説冒頭に見つかるだろう。

   今なら何事もできさうな気がする。あの交叉点をわたつて、まつすぐに、跳込台の上を歩くやうにして歩いて、あの街の只中へとびこむことも出来さうな気がする。(第一章)

 大都市の殷賑を恐れつつ、密やかな買い物をした後で、雷鳴と突風にあおられて「頬が燃える」のを感じたとき、悦子の心中にわきあがった思いである。彼女はたしかに、そこから一人で歩き始めるのだ。ただし、大都市大阪のただ中へではない、ふたたび米殿村へ、弥吉と三郎の許へ、さらには己れの裡の亡夫・良輔の方へと向けて、「踵を返」すのである。
 悦子の犯行も〈はじまり〉と〈おわり〉を持っている。が、急激なそれは瞬時に発現し、遂げられたものと見えるだろう。つづいて弥吉が主導する屍体隠蔽も、飼い犬マギの鳴き声のごとく「須臾にして止」(第五章)み、あとに残ったのは寝床に慄える弥吉と、しばしの「恩寵」のような昏睡から目ざめた悦子の姿である。夜明け前の世界はそこで、「しかし、何事もない。」(同前)という断言によって切断されてしまうのだ。
 すでに述べたように、テレーズの場合と最も異なるのは、悦子の犯行がここでは〈おわり〉に置かれていることである。何のことはない、『テレーズ・デスケイルゥ』のたくらまれた書き方に比べて、『愛の渇き』はごく当たり前の仕立てなのだ。作者・三島は、モーリヤックの試みたごとく、女の内面によって一貫して過去が再現されるといった結構を採らず、時の動きを模して徐々に終末へと向かうという平凡な書き方を選んだのである。しかも、末尾では、その後の展開や後日談など一切を明かすことなくあっけなく作品を閉じてしまう。一方のテレーズは、最後に事件後の全てをかかえて、悦子とは逆方向に、パリの雑踏のただ中へと歩き出すというのに、である。
 三島由紀夫が、みずから「モオリヤックの敷写し」(「あとがき」ー『三島由紀夫作品集2』一九五四昭28・8)と語ったように、『愛の渇き』には、女主人公に対する〈語り手〉の姿勢、その内面の描出、回想の動きなどに、まさにモーリヤック的な小説作法の影響を見ることができる。なかでも、『テレーズ・デスケイルゥ』の“名調子”ともいうべき熱っぽい問いかけを引き継いでいると見えるのだ。だが、なおそこには相違があり、三島独自のたくらみがあることも間違いない。
 もし、遠藤周作が伝えるように、三島が『愛の渇き』で『テレーズ・デスケイルゥ』を「ひっくり返そうとした」(『私の愛した小説』一九八五昭60・ 7)のだとすれば、その第一の仕立ては、すでに述べたように事件の配置転換にあると考えられよう。三島は、事件をいわば本来の位置に戻したのだ。つまり、それでも充分、自問する女、殺す女を魅力的に描くことができるぞ、というわけである。
 しかし、他にも「ひっくり返」しのたくらみが考えられる。たとえば、〈その後〉の扱いである。モーリヤックは、予審後のテレーズに寄り添って過去を内観的に描き出し、さらに末尾には夫との会話を置いて、読み手の関心をテレーズの後日へと向けている。実際、作者によって短篇数本と続篇『夜の終わり』までが書かれているのだ。一方『愛の渇き』では、悦子の回想による過去への遡行も限られ、末尾は、事件の後で唐突に閉じられ(1)、あたかも一瞬にしてすべてが凍りついたかのようである。すなわち、ここでは逆に〈その後〉は封印されたと見えるのだ。
 話の範囲や流れについてだけでなく、犯した行為自体にも差違がある。テレーズのおずおずとして目立たぬながらも陰湿な犯行と比べて、悦子のそれはあまりに派手々々しく、おぞましい凶行である。しかも、その対象となるのは、テレーズの場合にはまさに厭悪の的たる夫・ベルナールその人であるのに対して、悦子にあっては夫・良輔はすでに亡く、“敵役”の舅・弥吉も見逃され、なんと“代用”ともいうべき田舎青年・三郎が不運にも標的に選ばれるのである。あるいは、末尾に至って突如異様な行為を見せつけられる、われわれ読者の驚きこそが作者の狙いであったのだ、とすべきか(それも「ひっくり返」しの一つである)。弥吉の口を通して「本当におそろしい女だ」(第五章)という声が、われわれ自身のそれの如くしばし辺りに響きわたるのである。
 そういえば、『金閣寺』(一九五六昭31・1~10『新潮』)でも同様に、最後に金閣放火が置かれ、直後に小説世界の幕引きがなされていた。それは、ある完遂であり、破壊による〈おわり〉として、まさに「カタストローフ」(「あとがき」――前出)が仕立てられたのだといえよう。『愛の渇き』も同様と見える(「生きようと私は思つた。」で終わる『金閣寺』の末尾については後でまたふれなければならないが)。では、はたしてそれは悲劇の名に値するものであるのか。それが、ここで私の考えてみたいことである。…………………………………

――細谷博「『愛の渇き』の〈はじまり〉」『三島由紀夫研究』1 鼎書房 2005/11