hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

バケツ一杯の水

早稲田の入学式で村上春樹が話した内容を見て、ああ又かと少々がっかりしました。村上は、人間の意識は心という池からくみ上げられた一杯の水に過ぎず、残りは手つかずで未知の領域と言いますが、本当でしょうか。「バケツ一杯の水」の方が実ははるかに難物で、またかけがえのないものではないのか。

村上春樹の長編は未知の領域を異様なものとして色付けようとする意識的な作業と、私には見えます。彼は未知の心を探る役割を「物語」が果たしてくれると言いますが、村上の「物語」は非日常の異常とされた世界が知的に構築されたもので、その短編に比べて陳腐なものとさえ見えてくるのです。

しかし、本当に未知の世界につながっているのは、むしろ我々の日常ではないのか、日常を描き、あらたに見出すこと、それこそが小説の願望であり、アポリアではなかったか。

漱石の遺作『明暗』はそのすぐれた達成でした。その上で、『明暗』が未完に終ったことを、私はむしろかけがえのないことと思っています。その理由はまた別稿で。