hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『豊饒の海』における老い

 三島由紀夫豊饒の海』には、夭折とともに老いがにじんでいる。老いは、あたかも夭折者に添えられた刺身のつまのように、わずらわしく箸にからまり続けるが、やがて読者はそれこそが滋養に富んだ、読み応えある小説のたまものでもあることに気づかされるだろう。

〔中略〕

 『豊饒の海』は、夭折者の輪廻転生の謎を追い、唯識論の理路をたどって阿頼耶識の働きに迫ろうとする探究を描くが、その小説的実質の拠り所は探究者である本多にこそあるというべきだろう。

 すなわち、『春の雪』での清顕の夭折の後、『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』と巻を経るにしたがい、徐々に本多の生が物語の軸を動かすものとなり、『豊饒の海』はいつしか本多の遍歴譚となっていくのである。

 はなばなしい夭折者達は順次消え去るが、本多は残り、世界と人間の変容を見とどけようとする。それは認識者をもって任じる本多の生き方そのものであるが、同時にまた、小説世界の動きを担う者としてその生の持続は不可欠であり、老いはそこですでに定められたものとしてあるのだ。……

 

細谷博「『豊饒の海』における老い」より
――『三島由紀夫研究』19 鼎書房2019/05