hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『嘔吐』を読む(35)──一時間後(3) 対〈存在〉であるよりも、対〈人間〉ではなかったのか

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 ロカンタンは、いわば〈祭りの後〉にいるのだ。

《この私は、本当の冒険を体験したのだった。細かいことはまったく思い出せないが、いろいろな状況の厳密な繋がりが目に浮かぶ。私はいくつもの海を渡り、いくつもの町を後にした。さまざまな川を遡り、さまざまな森に分け入った。そして常に別な町へと進んで行った。何人もの女たちをものにし、何人もの男たちと殴り合った。そして一度も後戻りすることができなかったが、それはレコードが逆回転できないのと同じことだ。そうしたすべてのことが、私をどこへ連れて来たのか?》(五時半)

 異国での「冒険」という“陶酔の時”を過ぎ、女との仲も途絶え、地方都市での引きこもり三年で、伝記執筆の意欲も消え、生きる指針を見失うのである。

《私の全生涯は背後にある。それがそっくり見える。その形や、私をここまで引っ張って来たゆるやかな動きが目に映る。これについて言うべきことはほとんどない。私の負けだった、そのひと言に尽きている。三年前、私は粛々とブーヴィルに乗りこんできた。そのときは、すでに一回戦に敗れていたのだ。しかし二回戦を試みようと思い、ふたたび負けた。つまり勝負に敗れたのだ。同時に私は、人が常に敗れるものであることを知ったのである。勝つと思っているのは〈下種ども〉だけだ。》(火曜日)

 ロカンタンは町をさまようが、その冷ややかでごつごつとした認識が街路や人間に触れて軋み、ともすれば辛辣な評言が俗世に牙を剥くのだ。

《私は店のなかを見回す。なんという茶番だろう! この連中はみな真面目な顔をして座って食べている。いや、食べているのではない。彼らは自分に課せられた仕事を立派に遂行するために、体力を回復しているのだ。各人がささやかな個人的こだわりを持っており、それに妨げられて、自分が存在していることに気づかない。自分が誰かのために、または何かのために不可欠である、と思っていない者は一人もいない。》(水曜日)

 まさに観念的な人間理解、狭量な現実認識である。それは、若者らしい苛立ちに満ちた裁断であり、突き刺さるような視線を四方に放っているのだ。
 我々は、自分の周囲にもそんな目した連中が行き来していることを知っている。だが、鋭い裁断は決して若者だけの特技ではない。大人の懐中にも鞘に収められた刀剣はあるのだ。特に老人には、との自覚も湧く。老若どちらも第一線には立たず、隔たりをもって世間を評し得るのである。そこには無責任な狭量はもとより、透徹から慧眼までもが見分けがたく混在しているのだ。
 若年時の自分を振り返ってみれば、確かに、ことごとくに対して懐疑的であり、かつ、現世のただ中で所を得んと懸命に紅塵を吸ってもいたのである。唾棄すべきは俗界であるが、それが唯一生きる場と痛感し、俗人を厭いつつ、その一員たる己を嗤うという、皮肉で滑稽極まる状態であった。テンポやしぐさは異なれど、皮肉、滑稽においては老人もまた然りである。老若ともに無様にして珍妙、かつ実際は、ほとんどがただ無難に生息するのみの一個人なのだ。むろん、壮年中年もまた然りといえようが、こと無様さ珍妙さにおいては、我らこそ、と胸を張りたいのである。
 そんな自他の振り返りから推して、サルトルムルソーに付した「不条理のサンチョ・パンサ」のタグは、むしろロカンタンにこそふさわしいのでは、と書いたのである(連載(2))。
 ムルソーはサンチョではなくば、「裏返しのドン・キホーテ」とでもいうべきか。わざわざコリン・ウィルソンの言挙げなど待つまでもなく、作中ですでに「アウトサイダー」として衆目を集め、指弾されているのである。理由なき殺人とは、まさに凍りつくような反社会的行為なのだ。
 それに対して、ロカンタンには「不条理」との徹底的な対峙はなく、ただ「存在」に圧迫され、吐き気を催したというだけである。存在には意味もなく、条理・不条理など分別不要である。そこから来るのは、せいぜい風通しのよい恐怖にとどまるのだ。
 私はまた前に、ロカンタンは〈弱者〉であると述べた。自己保存を意識するからこそ己の〈弱さ〉が問題となるのだ。もし、すべては無意味だとすれば、強者も弱者もなくなるはずである。いわば、それがムルソーの目に映じた世界なのである。
 まさに、ムルソーは劇的世界の中心に立っているのだ。
 ただし、ムルソーアロンソ・キハーノとは異なり書物に拠らず、物語、神話、宗教などといった観念の錯綜――文化を必要としない。いわばモノクロの陰画と化したドン・キホーテであり、教養も、憑依も、過去も、そして何よりサンチョも持たぬ若輩のアンチヒーローなのである。よく見れば、母や養老院の老人たち、そして隣室のサラマノ老人にまで向けられた十分に人間的な眼差しがあるだけに、却ってその冷静さが観客の目を引き、疑念とともにヒロイックな期待さえ引き出すのだ。
 対するにロカンタンは、そのままではとうてい劇的世界のヒーロー足りえない。アシル氏や独学者への無理解も無様で、ぎごちないままに立ち消えとなり、自身もレコード盤の前で委縮してしまうのだ。前回述べたように、旧弊なるヒューマニストの独学者こそがバルビュスのその後とも重なり、ドン・キホーテの気高い愚かさを継ぐ者となったかもしれないのである。
 若者も老人も、自由反俗の士たらんとして、勇猛なる愚者ドン・キホーテに一抹の共感を抱くかと思いきや、賢明なるロカンタンはさにあらず。少なくとも決して同じ轍は踏むまいとする者である。一方のムルソーは、まったく愚かしくも無意味な暴挙によって、不条理な〈死〉へと突進していく。同じく「不条理」を見据えたといいながら、両者の方向は全くそれているのである。
 私はこれまで、ロカンタン(「私」)を若者と呼んできた。それは、彼が三十歳で、どうやら家庭も定職も持たず、自由に世界旅行や歴史研究を続け、依然として落ち着いていないと見なし得るからである。訳者の鈴木道彦氏も「三十歳の独身青年」(「あとがき」)としているのだが、はたしてどうか。ロカンタンは青年から壮年への移行期というべきだろう。むろん、社会的には一人前の大人と見られる男である。また、老年の私から見れば若造なのでである。
 漱石でいえば、『それから』の永井代助と『明暗』の津田由雄の二人がともに同じく三十歳だが、少なくとも津田由雄を青年と呼ぶには無理がある。まだ若い会社員ではあるが、結婚もし、考え方や生活ぶりも既に俗中の人である。それに対して、永井代助の方は、いまだに親がかりで生活し、定職を持たず、芸術鑑賞や遊興に日を送り、ついには恋愛事件を起こすなど、而立に至らぬ不安定な若者と見ることもできる。鈴木氏がロカンタンを呼んだ「高等遊民」とは、既に代助に対して作中で用いられたレッテルなのである(『彼岸過迄』で「高等遊民」、『それから』では「遊民」)。
 五十歳近くの小役人ジェーヴシキン(『貧しき人々』)や、四十歳の退職官吏の「私」(『地下室の手記』)などと比べれば、ロカンタンはまだまだ青年と見えるだろう。ただし、『地下室の手記』の「私」は同様に金利生活者であり、ともに引きこもりの孤独者という共通点が目につく。
 そんなロカンタンの前にあらわれた独学者とは、まさに孤独で不幸な中年男(第一次大戦従軍)であったのだ。ひょっとしたら、そのうらぶれた姿は独身者ロカンタンの未来像であったのかもしれない。すなわち、自惚れのかったロカンタンの姿勢も、いつまでもつか分からないのである。
 さらにはまた、ロカンタンが〈存在〉を強烈に意識するに至ったのはなぜか。それは、彼の拠り所である反俗、反社会が、物の存在の次元においては無化されるをことにを脅威に感じたからではないだろうか。反ブルジョア、反市民社会はいわばこの青年の基本姿勢である。だが、考えてみればそれは決して分明な指標ではない。金利生活者のインテリ青年の唱える反ブルジョアの旗幟は、親がかりの学生たちのスローガン同様決して鮮明とはいえないのだ。
 あらゆるものを〈存在〉として意識するということは、〈人間〉が特別なものと見えなくなり、ひとしなみに〈存在〉という問題に還元されてしまうことになりかねない。ロカンタンがつねに目を向けてきたのは人間であり、彼は海辺に憩う人々に感動さえしながら、また一方で、美術館に飾られた名士たちの肖像を唾棄していたのだ。名士や成功者をブルジョワと決めつけ排撃しようとするのは、それは、自分が彼らと人間としてつながることに対して冷静でいられないためではなかったか。
 ロカンタンは、行きつけの店の主人の生死を気にし、哀れな中年男の心理を理解しさえするが、あくまでも自分をアシル氏や独学者とは別物とみなして譲らない。そのいかにも若者らしい頑なな姿勢が無意識のうちに彼を追い詰めていったのではないか、と思えるのである。己の見下すブルジョアたちの市民社会において、自己の優位性、先見性は決して自明とはいえぬことを知り、「下種ども」などと口走る青年の苛立った不安定な意識が、自他の差異を無化するかのごとき〈モノ〉の存在に圧迫を感じたのではないか、と。
 すなわち、実は、問題は対〈存在〉であるよりも、対〈人間〉ではなかったのか。小説『嘔吐』の眼目は、大仰な身振りで語られた〈存在〉恐怖などより、ブルジョア批判やヒューマニズム批判であり、どのように現世の〈人間〉に向かうかの方にあるのではないか、と思うのである。
 ロカンタンが目の敵にしたのはいわば人間礼賛のヒューマニズムなのだという。しかし、その現場はどうか、人間そのものを目前にした青年の心は。

《目の前でヘマをしたアシル氏の挙動を、冷たく観察し続ける若者。共感も関心もないのなら、目を逸らして、女からの手紙でもバルザックでも読み続ければよいのに、彼はこの哀れなおじさんを認識の餌食にし続けるのだ。なぜだろうか。〔略〕
 寂しいセリバテール同士が食堂の片隅で出遇い、片方は話しかけたくてむずむずしているというのに──。》(『嘔吐』を読む(12))

と、私は書いた。
 またしても自身を振り返れば、若年時にもっともやっかいに思ったのは〈社会〉であり、その構成要素である〈人間〉であった。それに対して、どのような姿勢で向かうのか、そして、位置を定めるべくどうもぐり込むのかが、まさに切実かつ嫌悪すべき課題であったのだ。
 そして、老年となった今も、はたしてこの社会はどうなっているのか、その中の人間とは何か、との疑問は尽きないのだ。そして、それゆえにこそ、ともすれば私は、現代小説の中にまで、あの愛すべき愚かな老人と従者を探し出そう、などという〈かたむき〉を持っているのだろう。
 ではなぜロカンタンはハムレット足りえないのか。そのつきせぬ逡巡、迷いは、破滅へと向かうのではなく、かろうじて、あるいは、軽々と、彼を〈いまここ〉の生にとどめていると見えるからである。
 そう、我々のごとく。
〈祭りの後〉の本家たる我々老骨には、アウトサイダーもインサイダーも所詮現世上の違いに過ぎないと見えるのだ。
 そこまで考えて、私はやっとあらためて『嘔吐』を読むことができた、と思えたのである。

《「あの日だった、あの時だった、すべてが始まったのは」と。そして私は──過去において、ただ過去においてのみ──自分を受け入れることができるだろう。
 夜が落ちてくる。プランタニア・ホテルの二階では、二つの窓に明かりが点されたところだ。新駅の工事現場は、湿った材木の匂いを強烈に放っている。明日のブーヴィルは雨だろう。》(『嘔吐』末尾)

 ちょっと待てロカンタン君、君にはまだ「過去においてのみ」などと言い放つ資格はない。「夜」と「新駅工事の材木の匂い」そして「明日の雨」、それらが、何より君自身の〈いまここ〉を示しているのだ。

――人生の謎とは一体何であろうか。それは次第に難しいものとなる、歳をとればとる程複雑なものとして感じられて来る、そしていよいよ裸な生き生きとしたものに、なって来る。(サント・ブーヴ『我が毒』Mes Poisons 小林秀雄訳)

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