hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(5) ──〈語り手〉の断言と撞着

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健三自身の認識を考える前に、あらためて〈語り手〉について考えておこう。すべてはその叙述としてあらわれてくるからである。
少々面倒だが、お付き合い願いたい。ここで語り手に〈 〉を付けているのは、その発話がたんなる地の文というより、人称は無いながら特定の人物によるもの、と感じさせることの目印である。
 読み始めてまもなく、読者は〈語り手〉の物言いにしばしば断定的な調子が含まれ、物事を一方的に決めつけてしまおうとするかのような傾向があることに気づくのではないか。
 前にも引いた「一」の末尾の「細君も黙っている夫に対しては、用事の外決して口を利かない女であった。」や、「三」の始めの「そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。」といった断言に、すでに強すぎるものを感じた読者もいるだろう。さらにこの「三」の健三批判は次のように続くのである。比較検討のために、それをAとしよう。

A《けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞たる曠野(あらの)の方角へ向けて生活の路を歩いて行きながら、それが却って本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。》三

 断言の調子はきわだっており、読者の目をひきつける強烈な力がある。しかし、我々は「二十九」に至って、さらに次のような会話に出会うのである。

B《「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰らないね」
「そんな事はありません」
彼の意味はついに青年に通じなかった。》二十九

 Aに言う健三の「索寞たる曠野の方角」とは、「読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたり」(三)すること、すなわち彼にとっての「学問」の方向と重なっていたはずである。その「方角」が健三には「本来だとばかり」思えたのであり、「温かい人間の血を枯らしに行くのだ」とは「決して思はなかった」──Aでは〈語り手〉がそう断言していたのである。
 ところがBでは、健三自身がそうした「学問」の「方角」が実はむなしいものであり、それをつちかった「学校」や「図書館」は「牢獄のようなもの」(二十九)なのだと述べているのだ。さらにそこには、そうした「牢獄」生活を経なければ「今日の僕は決して世の中に存在していないんだから仕方がない」(同前)という屈折した自己認識までもが示されている。
これは、明らかにAの〈語り手〉の判断と矛盾する部分である。Bの地点から見ると、Aの「決して」という断言はいかにも不適切と見えてくるだろう。だとすれば、いったいどういうことになるのか。
 あるいは、こうした読みとりには反論もあるだろう。まず考えられるのは、作中のAとBには時間的なへだたりがあり、Aで批判されたような健三がやがて時を経てBのような認識に至ったのだとする見方である。主人公の自己認識の深まりを見る上で、これは共感をさそう解釈だといえるだろう。しかし、はたしてそれは成り立つのか。
Aの「決して思はなかった」という断言は、「この時はまだ」といった限定を寄せつけぬ強さをもっており、AからBに至る間の叙述にも、健三の「学問」に対する認識が変化したという指摘は見あたらないのである。
 さらに、もう一つ考えられる反論は、Aに言う「方角」をBの「学問」とは異なるのだするものである。すなわち、Aの「方角」とはたんなる「学問」をこえたものであり、漱石自身の場合でいえば後の創作活動へとつながる〈文学〉にあたるものであるから、健三がそれについて何ら疑いをもっていないのは当然だ、といった解釈である。
 しかし、これにもいささか無理があるだろう。漱石自身の場合にもあてはまるように、健三にとって「頭と活字との交渉」(三)とは「蝿の頭」(五十五)や「蟻の頭」(八十四)ほどの細字で「ノート」を書き続けることであり、それはまた彼の学者としての仕事――「学問」と重なっている。ましてや、Bの「学問」だけでなく、Aの「方角」までもが〈語り手〉によって「人間の血を枯らしに行く」ことだとされているのであり、そこに優劣をつけて見ようとすることは所詮無理となるのである。
 そこであらためて本文を見てみると、Aの引用部の直前はこうなっていたのだ。

《彼の頭と活字との交渉が複雑になればなる程、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気にその淋しさを感ずる場合さえあった。》三

 つまり、健三はここですでに「朧気に」ではあるが、自分の行く手にあらわれる「淋しさ」を感じているのだと述べられていたのである。それでは、なおさら〈語り手〉が健三の心事を「決して」と断言するのは無理と思えてくるだろう。
 では、どういうことになるのか。ここで、〈語り手〉の信頼度は大きく揺らいでいるというべきか。
これは、はなはだ厄介で、かつまた興味深い小説なのだ。我々の自己認識にも関わる、クリティカルな問題をはらんだ、言語による世界なのである。

#漱石 #道草 #語り手 #解釈