hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(4) ──「昔の男」

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    健三が出会った男は何者なのか。

    答えることは決して困難ではない。それはむしろ容易に名指すことができる相手なのである。

    だが、「一」では「その人」─「この男」─「その男」─「この男」─「その人」と呼称が揺らぎ、「二」になっても「帽子を被らない男」と意味ありげに呼ばれるのだ。「島田」という実名が出てくるのは「七」になってからであり、健三と男との関係の開示まで読者はさらに待たされるのである。

    作者漱石には、『こころ』「下」での「あなた」と「貴方」の無造作な混用の例もあり、用字等へのこだわりのなさの指摘も可能である。しかし、作品上でそれがどのような意味を持ち得るかは別問題であり、ここでは、島田の出現に対するとまどいが健三視点の語りであらわされていると見得るのである。

    あたかも健三自身が、その男を明瞭に呼ぶことを拒んでいるかのようなのだ。では、島田とは何者か。

    何のことはない、島田は健三の元の養父なのである。幼時の健三を養子とし、後に縁組解消をした相手だったのだ。しかし、そうした事実の開示は先延ばしとなり、元養父がここで「帽子を被らない男」などという謎めいた存在となっているのはなぜなのか。それこそが『道草』の核心に向かう問いとなるだろう。

    『道草』の自筆原稿を見ると、「昔の男(一)」と書かれた章題が消されて「一」となっている。まさに島田は「昔の男」(本文中にはない語である)として出現する存在なのである。

    何年かを経て故郷にもどった主人公の前に、親類縁者が現れてくる。当然のことである。が、それは時に「落付のない」健三の神経を刺激し、忘れていた過去を思い出させる。健三はそれらに抵抗もし、また同時に、牽引されもするのだ。

    だが、健三は、島田との再会を直ちに妻に告げようとはしないのである。

《しかし細君には何にも打ち明けなかった。機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事の外決して口を利かない女であった。》一

    「一」の最後で付け加えるように語られたのは、対となった健三夫婦の人物像である。

《こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。

    その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人をも不安にしなければやまないほどな注意を双眼に集めて彼を凝視した。隙さえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇どんよりした眸のうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍を通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。

「とてもこれだけでは済むまい」

    しかしその日家へ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。》二

    こうして、「帽子を被らない男」の存在感はトラブルの予感とともに高まり、さらにまた、健三夫婦の間の齟齬という厄介な問題もあらわれてくるのだ。

    妻にも告げず、自身の心中でも元養父をどう捉えるかが定まらないまま、健三の「落付のない」生活は続いていく。では、彼自身はそれらをどう認識し、どう判断しようとしているのか。

    ますます我々は個別の生のただ中へと招かれていくのである。


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