hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(3) ──出会い

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 そうして、最初の場面があらわれる。一人の男との邂逅である。それは、語ろうとされるものの重さを一挙に予感させる、全篇の白眉ともいうべき場面なのだ。

《ある日小雨が降った。その時彼は外套も雨具も着けずに、ただ傘を差しただけで、何時もの通りを本郷の方へ例刻に歩いて行った。すると車屋の少しさきで思い懸けない人にはたりと出会った。その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外(そら)させたのである。》一

 ここで「思い懸けない人」、「その人」と呼ばれた男は、さらに、「この男」、「帽子を被らない男」と呼び名が移ろっていく(原文の表記は「其人」「此男」)。それは、主人公の困惑をあらわし、さらにその男との関係の厄介さをも感じさせる。まさに、健三は不意打ちを食らったのである。

《彼は知らん顔をしてその人の傍(そば)を通り抜けようとした。けれども彼にはもう一遍この男の眼鼻立を確かめる必要があった。それで御互が二、三間の距離に近づいた頃また眸(ひとみ)をその人の方角に向けた。すると先方ではもう疾くに彼の姿を凝っと見詰めていた。
 往来は静であった。二人の間にはただ細い雨の糸が絶間なく落ちているだけなので、御互が御互の顔を認めるには何の困難もなかった。健三はすぐ眼をそらしてまた真正面を向いたまま歩き出した。けれども相手は道端に立ち留まったなり、少しも足を運ぶ気色なく、じっと彼の通り過ぎるのを見送っていた。健三はその男の顔が彼の歩調につれて、少しずつ動いて回るのに気が着いた位であった。》

 異様な緊張感に満ちた情景である。小雨が降る中、静かな往来を行く主人公は予期せぬ男の出現に驚かされる。その張り詰めた気持ちが、読む者の心を直接動かすかのように伝わってくる。そこで読者はただちに、これは尋常でない思いをもって語られようとしている小説なのだ、と感得するのだ。
 遠方から帰って来てまだ落ち着かない最中に突如現れた人物、それは一体誰なのか。読者はまだ知らされていない。しかし、緊迫した叙述の力によって、我々は主人公健三の生のただ中へと招かれるのである。

《彼はこの男に何年会わなかったろう。彼がこの男と縁を切ったのは、彼がまだ廿歳になるかならない昔の事であった。それから今日までに十五、六年の月日が経っているが、その間彼らはついぞ一度も顔を合せた事がなかったのである。》

 健三は、いったい誰と出会ったのか。

#漱石 #道草 #邂逅 #過去