hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

『道草』を読む(1) ──待たされる読み

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    漱石の一人称の誘引力はいうまでもない。『坊っちゃん』や『こころ』の心地よいまでの一人称の語りは、読み手の視線を語り手から書き手の方へと向かわせる強い力を持っている。すなわち、我々はそこで、漱石その人の声をじかに聴きたくなるのだ。
    だが、『道草』は一人称で書かれてはいない。なおかつ、『道草』は自伝的小説といわれるごとく、我々の意識を不断に書き手の方へと誘引してやまない作品なのである。
    では、三人称で書かれた『道草』は、読み手の耳目にどのように応じようとするのか。我々はそこで十分に招かれ、同時にまた拒まれるだろう。少なくとも、焦れるほど〈待たされる〉のである。

《健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。彼は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さえ感じた。》一

    『道草』の冒頭である。
    もしこれが、次のように一人称で書かれていたらどうか。

《私が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。私は故郷の土を踏む珍らしさのうちに一種の淋し味さえ感じた。》

    一目瞭然、それは自伝あるいは私小説と受け取られる仕立てとなるだろう。だが、『道草』はそうなってはいない。そこには、『道草』連載前の随筆「硝子戸の中」の一文「私が早稲田に帰って来たのは、東京を出てから何年振りになるだろう。」(二十三)に直結する感慨があり、同時にまた、己の情動から分離せんとする姿勢までもが詰め込まれているのだ。

《健三が遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう。》

という言いまわしは、よく見れば不自然な発話である。そこに語られた感慨は、そのままでは三人称に不整合なのだ。

《遠い所から帰って来て駒込の奥に世帯を持ったのは東京を出てから何年目になるだろう、と健三は思った。》

などと比べれば、その不自然さは明らかだろう。
    しかし、それはすでに『道草』という小説の語りの基調となっており、その感慨と思考の表出のはがゆいまでのこだわりをも予感させているのである。

#漱石 #道草 #一人称 #三人称 #自伝的小説