hosoyaalonsoの日記

文学懐疑のダンカイ世代

「小説」というかたちーー漱石『道草』

f:id:hosoyaalonso:20220821223738j:image

《船に乗った時の鈍い動揺を彼の精神に与える種となった。》

漱石『道草』中の表現である。妻の実家の経済状態が悪化しているらしいと知った主人公の心中を語っているのだ。
その比喩「船に乗った時の」とは、明快に足下の揺れの感触を伝えるだろう。それは、少なくともまだ、火事や大地震には至らぬ「鈍い動揺」であり、しばらくすれば慣れてしまうかもしれない気がかりなのだ。しかしまた、ひとたび乗り込んだ船であるからには、おいそれとは下船できない、共に揺れるままに進むしかない状態なのだ、と巧みに伝えてもいるのである。
加えて彼は、妻の「歇私的里(ヒステリー)」という不安を抱え、さらに姉や兄の生活や病をも気遣わなくてはならない立場に立っている。すなわち、周囲に繋がる人々が、各々に刻々と衰えてゆくことを思わざるをえないのである。

《凡てが頽廃の影であり凋落の色であるうちに、血と肉と歴史とで結び付けられた自分をも併せて考えなければならなかった。》

その思いは、こうしてさらに大仰な言葉で強められていく。読者各自の経てきた生の感受をも呼び覚まし、あたかもたしかな共感を奪うかのように。
かくして一語一句を辿って行けば、そこには、我々にも近しい日々の煩いと、それに対する心の動きが手応えをもって記されていることがわかるだろう。
まさに、そのただ中で主人公健三はあがくのだ。何かを成し遂げよう、みずからの生を意味付けようとして。
それは、人生の半ばを過ぎんとする者の、いかにもと思わせる焦燥である。あるいはまた、そうした寄り添いをもって読み得る者にとってこそ、「小説」と名付けられた物語が、ある生きられたかたちとなって、再びあらわれてくるのだといえるだろう。